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夏の一日

 梅雨明けが遅くて、ようやく夏がやってきたと思ったら、死者を出すほどの自然のしっぺ返し。ご冥福を祈ります。

 今年は本の出版もあるし、原稿の作成に時間を費やします。ほとんど更新できませんが、「廃墟」にならないように注意します。

 近況報告としての夏の一日。

 
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虚しい政務官 [国内政治]

 自民党・厚生労働政務官大村氏には政治能力がないように思える。あまり個人攻撃はよろしくないのを承知の上でいえば、結局この人は政治における結果責任の重大性を自覚していないように思われるからである。なんでもかんでも「議論しましょう」といえば済むことではない。

 なぜこんなことを書くのかといえば、以前から大村氏は年金行政についても言い訳に終始するバタバタしたコメントしかいえないし、なんというか、政治的思考に乏しいと思われるからである。一言でいえば、政務官の器ではない。どういう政治的配慮が働いて彼を政務官にとりたてたのかわからないが、舛添氏の人事采配であったとすれば、いささか疑問である。

 元旦の『朝まで生テレビ』をみていて、この確信が強くなった。辻元氏と大村氏のやりとりを聞いていれば、誰の目にも軍配の行方はあきらかである。だから、辻元氏が「なにゆうてんのかわからへん」といったとき、同じ感覚を抱いた方も多かったのではないか。ワタクシももちろんそのひとりである。そして、すぐさま大村氏が辻元氏の発言に対し、「頓珍漢なこというな」と反発したのであるが、これがまたピエロのようで虚しかった。

 物事には建前と本音がある。今回の朝生のテーマは労働問題であった。とりわけ焦点は派遣労働についてであった。派遣労働の問題性は解説するまでもなく周知のことになっている。大村氏は本音も建前もいわない。どの道、批判される立場なのだから方向を定めるべきであるのに、彼には軸足がない。

 大村氏は野党対策的ガス抜き装置で「言い訳幸兵衛」だから、もう彼は括弧にくくっていいのである。辻元氏はもう彼を相手しないことである。たとえ対決すべき政党所属の大村氏であるとしても、辻元氏自身の無駄を心配する。「グリーンディール」を国会でも提案したのであるから、そちらを詰めて政策を提言してもらった方が国民のためになるし、政治家辻元としても生産性がある。

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あらら、慣れるのに時間が。 [徒然]

 ずいぶん長い間、ブログを放置していました。久しぶりに更新してみました。で、驚きました。ソネットブログの機能が変わっていて、どれをどうしたらいいのか、昔と違うので面喰っています。

 まあ、使っているうちになんとかなるとタカを括っています。あまり難しいことをするでもなく、書いた文字がアップされればいいわけですし。写真やらなにやらは、ホトンド使わないし。前にあったはずなんですけど、タイムスタンプはなくなったのですかね。

 驚きの中でも驚いたのは、アクセス解析がついているではありませんか!これがプロバイダ料金の中に組み込まれていて、かつ、料金があがっていないのに、これまたビックリ。

 久しぶりにブログの周辺領域にも戻ってきたので、リンク先のブログをちらほらみたりして過ごしたクリスマスイブでした。なんだか、みなさん、難しいことを書いておられる。勉強不足、浅学非才は認めます。しかし、概念の問題とか、忘却の穴とか、物語りとか、いやはや現代思想って、もっとわかりやすく書いてくれたらいいのにと、日常言葉を使っているワタクシとしては思うのであります。

 いやいや、ビックリなんて言葉を使うところが、もう、浦島太郎状態なんですね。いまはサプライズというらしいです。

 あ、そうそう、久しぶりにホンモノの味噌汁を飲みました。いつもインスタント味噌汁だったので、ものすご新鮮。まさに、サプライズ。

 つらつらと、しょうもないことを…これくらいのソフトな表現スタンスで、お酒と同様、チビチビやっていこうと思っています。
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日銀からマクドナルドまでつながる切れない蜘蛛の糸 [国内政治]

 最近、NEWS23が特集を組んだように、経済対策、それを象徴する非正規雇用問題の解決が年末年始の政治課題となっています。よく漢字を読み間違いする麻生氏は、この政治課題を解決するべく補正予算に言及し、生活を守る予算だと大見栄切っていましたが、政治に頼ることの虚しさを表現したに過ぎないようです。世界で最初に不況から脱出できるかどうか。

 景気回復を前提にすると約束しても、消費税法改正を遮二無二実現しそうです。すでに公明党を説き伏せています。こうした消費税アップがアジェンダになっている財政状況は、日本経済の死に体を国内外にいいふらしているようなものです。それで「脱出」をいえる心臓は、さすがは茂の孫という貴族性の臓器でしょう。自民党は下野という形で国民に謝罪し、歴史的に反省しなければなりません。いつもいっている「解党的出直し」を本気でやるべきでしょう。

 こうした政治状況の窒息をさらに埋葬にまで先導するのが、皮肉にも日銀でした。日銀短観はアナウンス効果の恐怖を知りつつも、「景気は悪化している」といわざるをえませんでした。

 トヨタショックやソニーショックが日本に暗雲をもたらし、太平洋の向こうでは、フォード・モーター、ゼネラル・モーターズ、クライスラーのビッグ3がガケップチに立っているからです。自然の摂理に逆らい、東からの低気圧となって押し寄せているといえるでしょう。これはすぐに台風に変質します。この超強力凶悪な台風は、オズの魔法使いのように、最終的にメルヘンをキャリーしてくれる保証はまったくありません。

 さらには銀行の銀行の立場を守るべき日銀が、コマーシャルペーパーを買い取る動きもみせています。これは間接金融の禁じ手を実行するに等しく、その破綻は日本を恐慌に陥れることでしょう。アイスランドやジンバブエは対岸の火事ではありません。

 日銀のこうした2つの作業は、やむをえないものかもしれません。前者はアナウンスですからまだしも、後者は悲惨です。グリーンスパンが謝罪したような議会演劇が、数年後の国会で再現されることは、聴衆の立場として面白いのでしょうか。議会が国民の日常生活に浅いところでも深いところでもつながっているかぎり、自分で自分を笑うという、笑えない聴衆を、聴衆そのものが演じなければならないということになります。オーディエンスにアクターを要求する政治です。その時給が定額給付金とすれば、作り笑いも極まるということです。だが、それこそが、国民主権ということなのでしょう。

 「おい、地獄さ行ぐんだで!」ではじまり、「そして、彼等は、立ち上がった――もう一度!」で終了する小説が大層売れているようです。雇用情勢は悪化し、ニート60万人、フリーター180万人を数える現実は、ひょっとすれば「ホームレス予備軍」の生産を意味するかもしれません。彼らが多数となり、都会を彷徨うあるいは漂うほかなくなるのかもしれません。ワタクシは、実際、水谷氏とは目的が違いますけれども、大阪はミナミの街を夜回りします。PCを抱えて、あるいはマクドナルドに、あるいは隠れ家的居酒屋にと。マクドナルドはイロイロな人間模様があって、若い方から初老の夫婦まで吸収しています。始発を待つわけでもない行き場のない人びとが、数百円で席を占領しています。ワタクシもその一人としてPCボードをたたきまくっているわけです。煙と体臭と入り混じった空間は「地獄」的環境です。深夜4時にたたきだされるあの人たちは、その後、何処へいくのでしょうか。わかりません。しかしまた、この空間に舞い戻ってきます。

 ちょっと前までは、「プータロー」と笑って済ませて自己の将来に多少の希望と期待を寄せていた若い人たちは、100年に一度の「地獄」に遭遇し、その未来が濁ってきています。革命的伝統のない我が国ではありますが、西洋18世紀後半に匹敵するアクションを、合法的支配の下で実現できないものでしょうか。みながあきらめかけている政治に再び魂を入れるのは、投票用紙という武器しかいまのところありません。武器を武器と認識できる正気を保てているのかどうか、これをマクドナルドの住人に確かめる選挙が、春までに告知されることを願っています。

 日銀からマクドナルドまでつながる切れない蜘蛛の糸は、芥川でさえ描けないものです。切れるから蜘蛛の糸なのに、切れない蜘蛛の糸。しかも現代の蜘蛛の糸にはバラのような棘があり、縄化しています。では、1億2千万人がつかまっても切れない現代の縄は、一体、どこから垂れ下がってくるのでしょうか。それは神仏が製造・用意してはくれません。自ら紡ぎだすほかありません。しかしそれは自己責任の紐とは別の紐をあざなっていなければならないものと思うのです。すなわち、あざなえる縄は自己責任の紐とライフラインの紐と、さらにもう1本の「知恵の紐」とであざなわれなければならないと思われるのです。この「知恵の紐」をどう作るかが問題なわけです。そしてそれが、知恵の輪なので、なかなか解けないというわけです。
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ブログ再開のご報告 [教育問題]

みなさま

負担にならない程度に、細々と更新していこうと考えています。3ヶ月に1度とか。

よろしくお願いします。
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ご連絡

いかんせん、2足のわらじを履くのは、大変です。残念ながら、こちらのブログをつづけていくことが困難な状況になりました。恐れながら、今月末で、「廃墟化」いたします。記事の中で残すべきものを選択し、更新終了することといたします。

しょうもないブログでしたが、みなさまご閲覧、書き込み、ありがとうございました。

秋扇巵言・管理人


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歴史的敗北で [国内政治]

続投表明とは、ぜんぜん意味がわからない。安倍氏は筋の通った考え方のできない人なのだろう。

なぜ、「美しい国作りという基本路線は国民にご理解いただいている」と「思っている」といえるのであろうか。突きつけられた批判票は国民の憤怒と血でまみれている。投票箱には国民の悲痛な叫びが吹き込まれているはずである。

総辞職、総選挙で、今一度、信を問え。

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記事転載(許可有) [国内政治]

 -以下、「反戦な家づくり」(明月さん)より転載いたします-

憲法、なかでも9条が変えられることに反対するブロガーの皆さん。

7月の参議院選挙で、改憲に反対する候補者を、ひとりでも多く当選させ、改憲に賛成する候補者を、ひとりでも多く落選させることが、日本を戦争のできる国にしないための、今できる最大のたたかいであると思います。
自分の選挙区で、「改憲に反対し、なおかつ当選する可能性のある候補者」を見極め、支援し、投票することです。何党が好きとか嫌いとか言っている場合ではありません。

改憲へと歩を進める自民・公明に反対する人々から、もっとも多くの期待が寄せられている民主党は、改憲については態度を明らかにしていません。それぞれの候補者が、改憲に反対なのかどうか、有権者は個別に判断しなければなりません。

そこで、民主党の候補者全員に、9条の改憲の賛否を聞き、判断材料になる資料を作成したいと思いたちました。

民主党を改憲論争に引きずり出すのは、利敵行為ではないかと言う意見も多いようです。

民主党が、政党政治の方法論から改憲を争点にしないことを、必ずしも否定するものではありませんし、徒に分裂を望むものでもありません。
ただ、改憲反対の無党派である私は、改憲に反対してくれる候補者が誰かを知りたいのです。そう思っている人は、多いのではないでしょうか。

一方で、公明党は、「加憲」「9条は変えない」と言っています。もちろん、文言を加えることで換骨奪胎することも「改憲」です。全くのゴマカシであると言わねばなりませんが、このまま行くと、「9条守ろう」という票が、雪崩をうって公明党に流れることにもなりかねません。

候補者の、真の信条は、アンケートくらいでは分かりません。
また、この質問は全党の全候補者にするべきだという意見もあります。
どなたかお手伝いいただけるのであれば、そうしたことも第2弾として考えられると思いますが、現在の私の時間では無理があります。

というわけで、いささか手抜きではありますが、すこしでも「反対」のひと、「反対」に近い人を選べるように、下記のアンケートを実施したいと思います。

つきましては、反戦な家づくり・明月が発起人になり、以下のとおり、ブロガー諸姉諸兄の賛同を求めます。

1.下記のアンケートに「賛同ブログ」として名称とアドレスを記載します

2.回答の結果を、各ブログにて掲載してください

3.できるならば、多くのブログに賛同の呼びかけもしてほしい

+++++ ここからアンケート文面 ++++++++++

民主党 参院選候補者 各位

                 アンケートのお願い

 日頃は、私たち生活者の暮らしのためにご尽力いただき、感謝申し上げます。

 いよいよ参議院選挙が2ヶ月後に迫って参りました。 私たち、平和を願う国民は、固唾を飲む思いでこの選挙を迎えようとしております。

 去る5月14日には、国民投票法が強行採決され、改憲への日程が始まってしまいました。 この参議院選挙で、改憲に賛成の議員が大勝したならば、何ものにも代え難い「平和」を守ってきたこの憲法の、なかでも9条は余命3年を宣告されたようなものです。

 数の暴力でごり押しする安倍首相と自民・公明の両党への怒りは、民主党への期待と関心となって高まりつつあります。 

 しかし、残念ながら、これまでの何人かの民主党議員の方々のご発言から、「民主党はほんとうに平和を守ってくれるのか?」 という一抹の懸念を捨てきれないのも事実です。その迷いが、最悪の結果を招かないように、改憲に反対の候補者の皆さんを、微力ながら私たちも応援していこうと考えております。

 そこで、お手数ですが、下記のアンケートにご回答いただけないでしょうか。

 なおこれは、民主党を分裂させようという自民党の考えに沿ったものでは、断じてありません。投票にあたって、一人でも多くの国民に知っておいてもらいという、私たちブログを書く者の切なる思いです。

 そのために、ご回答いただいた結果は、末尾に列記した賛同ブログおよびその他のブログ等に掲載・転載され、少なくとも数万人の読者にお知らせすることができると思います。

 それでは、よろしくお願いいたします。

質問1  憲法9条を改変することに反対ですか。(YES・NOでお答えください)

質問2  その理由を、以下にお書きください。

期 限  公示1ヶ月前の、6月5日までにご回答をお願いいたします。

回答先(発起人) 反戦な家づくり・明月(http://sensouhantai.blog25.fc2.com/
            メール:info@mei-getsu.com
            FAX:06-6720-XXXX(実物には実在の番号を書きます)

賛同ブログ(50音順)

++++++ アンケート文面ここまで ++++++++++

以上、賛同いただけるかたは、このエントリーに、ブログ名称・アドレスが分かるようにして賛同コメントを寄せて下さい。

賛同コメントの期限は、5月25日(金)24時とします。

1日に延べ数万人の読者がいるブロガーズの底力を見せようじゃないですか。

ただし、25日までに賛同ブログが20に達しないときは、「民主党はそっとしておいてやれ」とか「こんなことは新聞がやることだ」とか、要するに実施に反対の意見が多いと判断し、アンケートは中止したいと思います。ご承知おき下さい。

※なお、共同発起人であったSOBAさんは、ご自分のエントリーに書かれているように、発起人は降りられ、このプロジェクトは中止すべきだという立場を表明されました。

※「投票にあたって、一人でも多くの国民に知っておいてもらいという、私たちブログを書く者の切なる思いです。」というところ、少しだけ書き直しました。2007.5.17 18:52

※この記事は、ご自由に転載してください。

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風薫る皐月に政治と教育の腐臭が漂っている。 [教育問題]

 風薫る皐月に政治の腐臭が漂っている。エリツィンの葬儀には出席せず、訪米のついでに日本の実質的支配者たる経団連のメンバーを引き連れて、中東へ桃太郎のように乗り込んで、あきれた意見を撒き散らす総理や、時期主力戦闘機の買い付けと軍事機密保持の約束に忙しい大臣をのさばらしておくのが、国民の選択なのか。

 こうした為政者たちは、軍事増強とともに憲法改正をめざす方針と、参院選を勝ち切ろうと教育再生3法案を可決成立させ、強権的な教育行政を実施し、教員支配を通して権力に従順な人間形成を学校教育に押し付ける方針とを化合して、覇者的性格を持つ国家像を提示した。テレビをみながらお乳をやるのがダメというのが、国家像の土台を支える。「~せざるべからず」ばかりがルールとして社会を支配する実情は、教育が権力的装置に模様替えしつつあることを意味しよう(註1)。

 このように教育が政治を支え続ける役割を担わされるのは、教育に問題意識を提供する力がないからである。あるいは権力装置として、あるいは民主的装置として、存在意義を付与されつづけたのが実際で、教育は自立性を獲得する運動をしてもいなければ、いまも昔も反省していない。いまの「教育」を「人」にたとえるなら、社会状況を直視せず、怖がっている小さな子どものようなものであり、これでは教育が固有の文化領域を主張できなくても当然である。教育の自立は夢なのだろうか。政治の侍従としての教育は、この先、権力装置としてしか意味付与されず、政治や経済に「有用な人材」を供給する仕組みに堕する一途である。

 そう、あの、昔なら農家の近辺によくみられた、「コウ、コケコッコー」と一斉にうるさく鳴きながらも姿がみえない膨大な数のニワトリ達の棲みかである。これが、学校の姿である。ブロイラーはブロイラーで殺される宿命を自覚しつつ、その棲みかの一番居心地のいいところを狙って競争する。1番から233万番まで決まることになる。他方、豪邸で過ごす一握りのking of chicken がいる。

 権力装置はどう働くのか。学校教育法の改正は、「公共の精神」、「我が国と郷土を愛する」こと、「伝統と文化を尊重する」ことを予定どうりに組み込み、ナショナルな意識を児童生徒に涵養する。教員免許法の改正は、いうことをきかない教員を一括処理する機能を発揮するだろう。と同時に、教育公務員特例法の25条いわゆる「指導改善研修」は教員削除に威力を発揮する。この「指導改善研修」との表現は、戦前の内務省の指導理念のように響くのである。地方教育行政法の改正は、間接的に教員の在り方に影響するが、例の「両論併記」にもあらわれているように、激しい綱引きが中央と地方にある。心配されるのは、たとえば犬山市などの革新教育行政を実施するところをグチャッと潰す中央の政治圧力である。

 教育は経済も支え続ける。なぜ、派遣社員の給与が人件費として計上されず、ヒトがモノ扱いされるのか。その一方で、抜本的な公務員改革が進まず、天下先の給与が官僚時代よりも高いなどということが許されるのか。そんなことに注目しない愚直な人間を育成してほしいというのが、財界の人間形成観である。

 政治と経済は一蓮托生的支配をするのであるが、こちら、財界の教育意識の方が、あらゆる意味で、怖い。財界の教育意識は、利潤追求を実現できるコミュニケーション能力を持った人間形成を求める、というところにある。これは見栄えのいい標語であり、財界が教育にプレゼントしたキキゴコチのよいフレーズで、実際は、かなり違う。

 どう違うのかといえば、それは次の問題を考えることにヒントがあるのではないかと思われる。

 「いつから私たち大人は、若者をいじめるようになったのか」の問いである。

 1800万人もいない若者(未成年)を、いつからワタクシたちはあたたかく見守らなくなったのか。いつから権利よりも責任ばかり押し付けるようになったのか。責任ならまだいい、単なるワーカホリックに追いやっているケースもある。また、大人たちは若者をヒトククリにみて、冷や飯を食わせ続けている。あらゆるオートメーション化が熟練工を追い出し、教育的にいえば職業学校を取り潰し、愛ある徒弟制度はもう遠い世界の昔話である。それに代わって上述の棲みかをはいでた単純労働力として若者を動員する。A hen is cackling. なんらの技能も持てないまま成長する人生に、どうして誇りが持てるのか。仕事に矜持を感ぜられなくなるのだから、経団連のいわゆる『希望の国、日本』のフレーズは、『失望の国、日本』といい換えられなければなるまい。

 豪邸出身のひとりの天才が品物の設計図を描き、その大量生産に「棲みか」出の大多数の若者が動員される。この「ひとりの天才」を英才教育で育成、他の者どもは、「そのあたりの学校」で育成する教育制度を用意する。なんとわかりやすい「うつくしい国」ではないか。

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(註1)

<教育再生会議>「親学」提言見送り 「押し付け」反発で

5月11日12時27分配信 毎日新聞

 政府の教育再生会議は11日午前、首相官邸で合同分科会を開き、親に向けた子育て指針として同日にも発表予定だった「『親学(おやがく)』に関する緊急提言」について当面、発表を先送りすることを決めた。「親学」との表現を使わないことも確認した。今月末以降の第2次報告に反映させる方向で調整する。政府や与党内にある「国民への教育観の押し付け」「政策的な裏付けがない」などの反発や批判に配慮した。
 ただ、同会議に出席した安倍晋三首相は「議論が物議を醸しているのは事実だが、もっと物議を醸していいのではないか」と発言。「いろんな偏見があったり、アレルギーがあったりするんだろう。アレルギーを持つのは間違っていると認識していけば、冷静な議論が出てくるのではないか」とも述べた。
 提言発表は山谷えり子首相補佐官らの主導で計画されたが、母乳による子育ての奨励など個人の価値観にかかわる内容を含んでいたことから政府・与党内に国民の反発への懸念が広がっていた。山谷補佐官は会議終了後の記者会見で「第2次報告に収れんさせる部分と(報告と別に)情報提供する部分を考えたい」と語った。拙速な対応が表面化したといえ、再生会議のあり方を問う声が高まりそうだ。【平元英治】

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あすの全国学力調査テストの考察 [教育問題]

 昨日のエントリーに引きつづき、もう少し全国学力調査テストの意味を考えたい。

 最大のポイントは、児童生徒が問題提起者=仮処分申請者であるということである。仮処分申請を受けた京都の裁判所がどのような判断を下すのか、きわめて興味深い。なぜならば、申請を却下するにしても、どういう理由からなのか、国民に示すその理由の正当性に関心があるからである。教育を受ける権利と個人情報保護の間に挟まって、さらには、思想・良心の自由にも関連し、裁判所は苦しむと思う。箇条書きで以下、思うところを示す。

 ①この仮処分の提起者が、社会的に未成熟であると判断し、却下する、という理由が成り立つ。なにしろ未成年だからである。中3で15歳、小6で12歳である。そうした未熟な児童生徒が、学力テスト受験拒否できる考え方を自己主張するだろうか、ということである。これは②を導く。

 ②裁判所は、この問題提起者は、表面的には児童生徒であるが、実際は、その保護者が学力テストを受けさせたくないから、申請させたのだ、だからこの仮処分は申請は受け容れることができない、とする。仮処分申請にかかる文書作成、添付印紙、また、弁護士への依頼、そんなことは小6、中3にできるわけがない、ということ。しかも、保護者のイデオロギーを児童生徒に押し付けていいのか、の問題もある。

 ③しかし、申請書類には、児童生徒の名前が厳然としてある。提起者は児童生徒そのものである、というのは紛れがない。そういう点では、将来、裁判の証言台で、児童生徒が「情報が漏れるから、受けたくないもん」とはっきりいえば、それは尊重されるべきであろう。そして、たとえば、未成年でも株式を取得しているケースがあるし、「名義」がなによりも尊重される。とすれば、②の理由は通らない。

 ④個人情報保護法は、京都市、京田辺市が万全を期している、だから、試験受験を拒否する主張は認められない、という考え方。これが却下の一般的理由としてつけられるもっともらしい応答になるだろう。しかし、「世の中に絶対はない」のだから、「情報が漏れる(かもしれない)から、受けたくないもん」というのはきわめて正当な主張であって、逆に、漏洩がもしあったなら、裁判所は責任をとれるのか、ということにもなる。

 ⑤だが、「教育を受ける権利」は、「教育を放棄する権利」を含んだ解釈になっていない。このあたりの法的解釈がこの仮処分申請によって進むのではないか。どういう教育を受ける・受けないについての自己判断が児童生徒に認められるべきではないか。義務教育の必要性は自明であったとしても、学力テストを受けなければならない必然性は自明ではないからである。なにも犬山市のように、自治体でなければ拒否する権利はない、ということはないだろう。飽くまでも、受験するのは個人なのだから。

 ⑥しかも、テレビの視聴率と同じで、サンプリングで学力の調査は十分できるだろう。

 ⑦ところで、少年法が改正され、厳罰主義が一層強まった。12歳以上なら、少年院に送られる。とすると、12歳以上では、自己判断ができると「刑罰」面では国会において法律成立という形で認められたということになる。国民的合意である。いってみれば、小学生は未熟な判断から倫理道徳的に大人と同じ判断ができず、「してはならないこと」をしてしまう可能性があり、それは保護に値するとする。だが、12歳以上なら、刑事罰がなんであるか判断能力があり、それは、人格形成において、かなりの完成が認められるということになる。

 ⑧とすると、「かなりの人格形成」ができあがった12歳以上の「人間」であれば、学力テストを受験するか否かの判断能力ぐらいは持っていると推論される。

 さて、どうなるのだろう。

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全国学力調査テストにまつわる問題性 [教育問題]

 あす4月24日、約40年ぶりに、全国学力調査テスト(以下、「全テ」と略す)が犬山市と若干の私立を除いて全国的に実施される。ここに京都市のある学校も現在、児童生徒から仮処分申請がなされているので、実施されない可能性もある。

 4月以降の全国紙とスポーツ新聞のWEBに、全テに関する記事が時折紹介されていたので、そこから知れる第2次情報を表題によって整理すれば、「全国学力調査、答案用紙に氏名に代わり番号記入認める」(『朝日新聞』2007年4月2日付・註1)、「小6も番号方式…個人情報の保護で文科省」(『毎日新聞』同年4月10日付・註2)、「小6対象の全国学力調査、『無記名』希望の自治体続出」(『朝日新聞』同年4月11日付・註3)というように、テスト用紙に名前を書くかどうかが、最初の問題になっているのがわかる。

 この学テがベネッセとNTTデータの民間委託業務(それぞれの会社が小と中を分担)として実施されるところに批判が向けられ、個人情報の漏洩を心配する正常な意見が、保護者や学校関係者から続々表明されたわけである。「本当に結果が漏れないのか、漏れたら企業責任になるのか、それとも実施者たる国になるのか、3セクのように責任の押し付け合いになるのではないか」とか、「民間企業を儲けさせる措置なのか」とかの声があがっている。

 試験結果が漏れないことはない。必ずどこかで誰かが漏らす。「人の口に垣根は立てられぬ」、そういうものである。ただ、隠蔽されて、漏れないように「みかけ」を整えるだけである。教育の市場原理導入の精神からいえば、逆に、試験結果を公表した方が、学力重視の人気校がはっきりわかることになるので、学テ推進派は実は公表を望んでいるのだろう。

 教育課程の点検、公表、評価、情報公開の考え方からすれば、そっちの方がすっきりする。個人情報保護法と整合性をとろうとするなら、学テを実施するのは無理である。実施したとして、何のためにすべての児童生徒に学テを実施するのか、全員参加でも、一部参加のサンプリング方式でも結果がかわらないというのだから全員参加の実施意味がない。テレビの視聴率調査と同じである。

 さて、1行目にも書いたのであるのだけれど、京都市の「児童生徒」が裁判所に仮処分申請した。

 小中学生が学力テスト差し止め求める - 社会ニュース : nikkansports.com [2007年4月16日19時8分]

 文部科学省が国公私立の小学6年と中学3年を対象に24日実施する全国学力テストは個人情報保護法などに違反するとして、京都府内の小中学生9人が16日、京都市と京田辺市の教育委員会にテストを実施しないよう求め京都地裁に仮処分を申し立てた。
 原告弁護団によると、テスト差し止めの仮処分申請は初めてという。
 弁護団は「組や出席番号といった個人を特定できる情報を、採点する受験企業に流すのは個人情報の目的外提供にあたる」などと主張。また、学力テストで学校の序列化が進み、等しく教育を受ける権利が侵害されるなどとしている。
 申し立てたのは府内の中学3年4人と小学6年5人。文科省は学力テストで氏名や性別などの記入を原則としている。
 京都市教委は「氏名の代わりに番号を記入するなど個人情報の保護には万全を期している」とし、京田辺市教委は「申し立ての内容を見ていないのでコメントできない」としている。
 全国学力テストは自主参加形式で、愛知県犬山市教育委員会が競争力で学力向上は図れないなどとして不参加を決定している。

 この仮処分申請の意義は、「大人(保護者・有権者あるいは義務教育受益者)」ではなく、たとえ保護者の意志が働いているとしても、「児童生徒」自らが申請したところにある。おそらく、仮処分は、却下されるであろうから、提訴は必至である。これはスゴイ行政裁判になる。というのは、「教育を受ける権利」を有する児童生徒自らが自己の学習権を賭けて闘うことになるからである。

 教育を受ける権利(憲26条)とともに、思想・信条の自由(憲19条)に対して、新しい司法判断がくだされることになるだろう。大いに注目されるべきである。果たして、子どもたちの挙げた声は、どういうふうに解釈されるのであろうか。

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註1

「全国学力調査、答案用紙に氏名に代わり番号記入認める」(2007年04月02日20時23分朝日新聞)

 全国の小学6年生と中学3年生約240万人の大半が参加し、24日に約40年ぶりに行われる全国学力調査で、実施主体の文部科学省は2日、答案用紙に名前を書く小6について、名前は書かずに番号を記入する方式も認めることを明らかにした。答案は民間の「ベネッセコーポレーション」(本社・岡山市)が回収・採点するため、関係者から「個人情報保護の点から問題」との指摘が相次いでいた。
 中3の答案用紙には氏名欄がなく、あらかじめ書いてある個人番号で学校だけがどの生徒の答案かがわかる。ただ、番号と名前を照合するために一定の作業が必要で、小6では「児童の作業負担を減らす」との理由で答案に名前を書く。
 文科省は「小6についても個人情報保護には万全を期している」としているが、全日本教職員組合や教育学者らが問題視。一部の教育委員会からも、名前を書かない方法での対応を求める声が出たため、文科省は「例外措置」として番号方式を認める。
 文科省はその条件として、自治体の個人情報保護審議会から「氏名記入には問題がある」との指摘があることや、自治体独自の学力テストで番号方法をとっていることなどをあげている。

註2

「<学力テスト>小6も番号方式…個人情報の保護で文科省」(4月10日19時24分配信 毎日新聞)

 今月24日、小6と中3の全児童・生徒を対象に行われる全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で、文部科学省は10日、小6向けの解答用紙に名前の代わりに番号を記入する「番号方式」を例外的に認めることを明らかにした。同方式は個人情報保護などのため、一部自治体などから要望があった。
 氏名記入欄がそもそもなく、個人番号で識別する中3とは異なり、小6の解答用紙は氏名記入欄があった。番号という「匿名」のテストに慣れていない小学生の戸惑いに配慮したという。
 しかし昨年、本番と同様の予備調査を行ったところ、家庭の状況などを記入する項目に「家に何冊本があるか」「家の人と一緒に旅行に行く」などプライバシーにかかわる設問があった。さらに、調査の発送・回収、採点などを民間企業が行うことから「個人情報保護に問題が出る恐れがある」などと指摘された。
 このため、文科省は今年3月に方針転換し、市町村の個人情報保護審議会から「氏名記入に支障がある」と指摘された場合などに限って、例外的に番号方式も認めることにした。
 調査の発送作業などは、ベネッセコーポレーション(本社・岡山市)が小学校、NTTデータ(同・東京都江東区)が中学校を担当する。【高山純二】

註3

「小6対象の全国学力調査、『無記名』希望の自治体続出」(2007年04月11日08時50分朝日新聞)

 全国の小学6年生と中学3年生約240万人の大半が参加し、24日に約40年ぶりに行われる全国学力調査で、回答用紙に名前を書く小6について、文部科学省が例外措置として認めた無記名の「番号方式」を希望する自治体が相次いでいる。10日には文科省が教育委員会への説明会を東京で開いた。多くの教委は今後対応を決める。
 小6の回答用紙は、民間企業のベネッセコーポレーション(本社・岡山市)が回収・採点する。個人情報保護への不安が寄せられたため、文科省は3月末、自治体による学力テストで番号方式をとっていることなどを条件に、番号方式も認めることを決めた。
 これを受けて大阪府では、府教委によると大阪市を除く全市町村が番号方式を希望している。残る大阪市教委は「未定」としている。
 京都府では、全26市町村のうち18の自治体が番号方式を希望しているか検討中。京都市教委の担当者は「市の学力調査も番号で実施している。回答用紙が学校の外に出るので十分な注意が必要」と番号方式を望んでいる。神奈川県や千葉県でも複数の自治体が番号方式を希望。愛知県でも希望する自治体がある。
 全国学力調査での個人情報保護については、請願を受けた兵庫県南あわじ市議会が3月末、個人名の記入には慎重に臨むことなどを求めた意見書を可決、市教育長に提出している。

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ゆとり教育世代は、獲得できなかった「教育内容」に対し、損害賠償請求することは可能か。 [教育問題]

 ひとつの大きな仮説として、掲げてみた。

 ゆとり教育世代とは、平成10・11(1998・1999)年版学習指導要領の教育内容にしたがって学校教育、とりわけ中学、高校教育を受けた世代を指す(ここでは高校生で考える)。この学習指導要領の実施は、平成14(2002)年度からである。同時に週5日制になった(これは実は1年の前倒し措置)。だから平成14年度以降、高校に在籍していた世代が、いわゆる“ゆとり教育世代”であると規定される。とすれば、昭和62(1987)年生まれの人たちから、この世代に属すことになる。では、ゆとり教育世代の終了は、いつなのだろうか。それは、次の学習指導要領改訂・施行まで、と区切るのが一般的なのだろう。次の改訂はいつなのだろうか。

 教育再生会議(註1)が第1次報告で、授業時間数の10パーセント増量を提言している。この増量措置が学習指導要領に反映されるに違いないが、学習指導要領の次の改訂は、ここ1、2年は先であろう。なぜなら、中教審はいま、例の教育再生関連3法案に決着をつけたところだし、まだ、大学9月入学やバウチャー制度に対する調整的議論もあるからである。中教審としても、バウチャーには慎重だろうし、教育再生会議の顔色をみているばかりではおもしろくもないだろう。山場は8回裏あたりになる。山崎氏には、分科会に慎重な議論を要請していただきたいし、文科省初等中等局の官僚達には、是非とも綿密に時間をかけて学習指導要領の「作文」をするようお願いしたい。

 現在、教育行政の主流的立場を再生会議に明け渡し、第2位的立場にある中教審だが、平成15(2003)年には、ゆとり教育をいい出した舌の根も乾かないうちに、ゆとり教育見直し論を当時の文科相は中教審に答申させていた(「初等中等教育における当面の教育課程及び指導の充実・改善方策について」)のだから、なにをかいわんやであった。これは、授業時数の増量改訂措置を提起したものではなかったが、本質的には従来型学力向上を期待する答申であったといえる。すなわち、以下のようである。

 答申の提示する学力の内容や立場は、まとめていえば、「今後の教育の課題は、個性を発揮し、主体的・創造的に生き、未来を切り拓くたくましい人間の育成を目指し、直面する課題を乗り越えて生涯にわたり学び続ける力をはぐくむことである。このために子どもたちに求められる『確かな学力』は、知識や技能はもちろんのこと、これに加えて、学ぶ意欲や、自分で課題を見付け、自ら学び、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力等までを含めたものである。これからの学校教育では、『生きる力』という生涯学習の基礎的な資質や能力を育成する観点から、『確かな学力』を重視すべきであると考える」と紹介されるものである。

 「『生きる力』を知の側面からとらえた『確かな学力』」といったいい回しや、「知識や技能はもちろんのこと」と主張するのは、中教審≒文科省の自己修正にほかならない。もともと「生きる力」が3層構造の力つまり、知・徳・体のアマルガムなのであって、その中の一部分である「知」にアクセントを置いた主張が同答申の骨子であるといえよう。自分が過去に主張した「生きる力」と齟齬しないように、ぎりぎり批判をかわした表現を探知した結果がこうしたいい方になったのである。教育再生会議でも、塾に頼らず学力を向上し、かつ、学力格差をなくすという夢のような「ゆとり教育見直し」論を展開している。中教審がいった「当面」ではもう済まない、文科省が及び腰ならば、官邸主導で「きっちり見直させてやろう」というハラである。

 もうすこし補うと、平成15年答申の基本的立場としては、「生きる力」養成のために、個性を生かす教育の充実を目指して、教えるべき内容・考えさせるべき内容に応じて教員が必要な指導を行い、個に応じた指導などの工夫をした「わかる授業」を一層推進する。同時に、「総合的な学習の時間」を通じて体験的・問題解決的な学習活動を展開する。こう同答申には綴られていた。

 平成15年答申における「生きる力」は、二重の構造で理解される。三浦朱門氏などのいわゆる「実直な精神」力を、「生きる力」とみなす流れ(「徳」に力点をおいた教育)と、数学オリンピックに出場するような江崎玲於奈氏などのいわゆる高度な知力を「生きる力」とみなす流れ(「知」に力点をおいた教育)とである。後者はエリート教育として発現していくのであるが、それは現在でもその端緒として「スーパーサイエンスハイスクール」として実現している。高大連携すら都道府県立の名門進学校では展開されている。だから、学校教育の「能力的」複線構造にしたがい、「生きる力」の意味分裂がじわじわ浸透しようとしているといえる。これが、教育の機会均等をつきすすめた結果であり、憲法26条の文言、「その能力に応じて、ひとしく」の現実である。

 「生きる力」は、よくいえば、はじめて出会った諸問題をも自力でなんとかする問題解決能力、悪くいえば、融通無碍的解決能力というようにワタクシは評価している。「生きる力」を総合学習で修得できると教育行政関係者達――あの寺脇氏など――が主張していたけれども、そうした力は体験学習を基礎とする総合で培われるものなのか、今でも疑問である。たしかに社会とのかかわりの中で育むダイナミックな「教養」も必要であり、社会関係の中で実践的な「生きる力」は養成されるのかもしれない。だが、創造力の向上や湧きいづるアイデアは、不断の地道な学習の中で「ふと」頭に浮かぶものであるし、そうして浮かんだ事柄を書きとめたり、造形したりすることによって、その「力」なるものが表現され、後に残るのではないか。そうであるなら、人知れず苦悩する時間こそ、「生きる力」育成の第一歩だと思われるのである。さらには、問題解決能力は、たしかに「生きる力」の実質だろうけれども、その前提となる「問題を自分で発見する」力をも含むものだろう。当然、こちらの方が難しい。問題が出されれば、悩むには悩むがそれはいいことである。問題は、何に悩んでいいかわからない状態だからである。

 ところで平成10・11年版学習指導要領によって高校教育を受けてきた生徒が大学を受験し、入学することを「2006年問題」と大学関係者は呼んだ。教育行政による作為的な「相対的に少ない知識量に基づく学力」が基礎学力となっている新入生が、大学教育を理解できるのかと慄いたわけである。そこかしこの大学で、予備教育として高校段階の復習授業を大学教育課程に組み込んだのも数年前からである。たとえば、工学部において、数学の実力があまりにも低く、授業についていけない学生が増えることに鑑み、先手を打ってR大学などは予備校の講師を招聘し、授業をしたようである。生物を学習していない医学生の問題も表面化した。

 この世代は、その前(後)の世代よりも学ぶ内容の範囲や程度において、「損」をしていると自覚しているであろう。また、客観的にみても、ゆとり教育世代は、知恵、知識の「損」をしているように思われる。授業時数の比較だけでいっても、平成10年学習指導要領の適用前後では、高校で年間6単位も少ないし、小学校では年間1015時間が945時間に減少、すなわち3割削減したのだから。その積み重ねによる不獲得知識量は膨大なものとなるし、知識定着のためのドリル学習が時間的に無理で、ほぼ行なわれていないのであるから、創造・アイデアの源泉たる「地道作業」も経験量が圧倒的に少ないというべきであろう。

 ゆとり教育の時代にたまたま運悪く生まれただけで、その前の学習指導要領に規定された教育内容の3割削減を甘受しなければならなかった彼らは、「不獲得知識の損害」を文部科学省や各教委に請求できるのだろうか。エントリー表題に対し、何をどれだけ学べるかは、自分の自由にならない、それが、残念ながら生徒の位置である、学ぶものに学習内容決定権が委ねられていないとすれば、それを決定した教育行政に責任を問えるのではないか、と生徒の立場からの推論を用意する。

 すなわち、「国家の教育権」を主張する政府が、ゆとり教育世代の損失を認め、責任を負うべきであるとの理屈である。いいかえれば、最終的には大綱的基準を示す形で学習指導要領の正当性の司法判断が下されたのであるから、国家の教育支配の責任を、ある程度問うべきではないか、ということになるのである。そうでなければ、学習指導要領の恣意的な改訂と文科省の迷走が、今後もつづく。

 ただ、学習指導要領の改訂が国民の選択であったといわれれば、元も子もない。不獲得知識の賠償請求の立証は、困難である。どうみても損なのに、その賠償の形として知識を獲得する機会の再提供すらない。そうした意味では、例の「再チャレンジ」は、政府の懺悔なのだろうか。損をした30パーセントの知識量をどのように見積もるか。教育を受ける権利を侵害されたゆとり教育世代は、金銭的な賠償請求ができないなら、なんらかの救済の声をあげるべきではないか。たとえば、バウチャー券を発行してもらい、生涯学習機関で個々に応じた資質能力を身につけられるように。

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註1

 あの臨教審と中教審の並存状況のときでさえ、臨教審は3年半開催され、ようやく4次答申にこぎつけたのである。1年に1回づつ答申した割合である。それだけ、中教審に敵対しつつも慎重な議論を交す姿勢をみせたといえる。そうした「遠慮」に対して、教育再生会議は、厚顔無恥というかなんというか。昨年10月に閣議決定、設置されて3ヶ月で1次報告がなされたし、わずか1年の間にあと2回報告してそれを政策化しようというのだから、無茶である。審議会並存状況を解消する意識もない。これでは、「参院選の政争の具に教育が利用されている」といわれても、その批判を安倍内閣は甘受するほかないといえる。こうした審議会の並存状況がどのように政府の教育政策立案化に影響を与えるのかは、他省庁にないケースであるし、審議会行政の将来を占う上でも興味ある考察になるだろう。これについては機会を改めて、活字にしようと思っている。

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嫌な言葉になった「適切に」 [徒然]

 「適切に」、は、こんなに下品な言葉だっただろうか。最近、政治家ほか、いろいろな人がこの言葉を使っているのを聞く。言葉の真の意味とかけ離れた使い方がされているゆえに、意味不明になりつつある言葉といえる。

 これと同じ類のものに、「しっかりと」というのもある。この言葉も生命を失いつつある。この言葉の使い手が、これまた正しい意味でこの言葉を使わなくなったからである。

 こうした言葉たちは、前首相小泉氏が流行させたのであると思っている。はぐらかすのが得意であった前首相は、言葉の意味をも崩してしまった。それを再利用しているのが安倍氏であろう。なにが適切なのかわからないが、なんに対しても「適切に」といってしまっている。安倍氏の「適切」は、どの程度「見合っているもの」であればいいのだろう。3割相当だろうか。

 もっとひどいのは、いうまでもなく事務所経費で追いつめられている松岡氏である。年間500万といえば、若い方の年収に近い金額であろう。それを「適切に」報告しているといわれても、信頼はできない。

 松岡氏は、農林水産政務次官のときから、あまりよい人物とは感じていなかった。なぜなら、彼が、「宝の海を返せ」とがんばっていた有明海の漁民に対して、怒鳴りつけていたTVをみたことがあったからである。彼は、あのムネオ氏とセットで旧自民を代表する存在、つまり族議員なのであるけれども、そろそろこちらもリタイアしてもらわねばならない。「適切な」処分が安倍氏に期待される。

 言葉というのは、バチッと適切に使われてこそ、美しい。

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ちょっといいですか [教育問題]

 ちょっといいですか。

 ワタクシは、教員養成に微力も微力ながら関わっている。なんとか学生たちを自治体に送り込んできた。その一人ひとりは、とてもすばらしい資質を備えた学生たちであった。

 採用試験は、とても狭く険しい道であると伝えてきた。

 それがいまでは、広い道である。

 教職は、人生を賭ける価値ある職だと伝えてきた。

 それがいま、ワタクシの中で、揺らいできている。

 そう伝えていいのかどうか。

 同級生から熱湯をかけられるいじめ。それが知らない間に起こる学校現場である。保護者から苛め抜かれて自殺してしまった教員もいた。欝で苦しみ、休職を余儀なくされる教員もいる。

 本当に、楽しい職場なのか。

 子どもたちを相手に、その成長を見守る仕事が、楽しいのか。そうじゃないんじゃないか。陰湿ないじめがはびこる教室が、そんなにいいところか。そんなふうに思えてきた。

 ちょっといいですか。

 報道されているような苦しい教育現場に、魅力があるか。疲れて家に帰れば何もできない教職に、魅力はあるか。土日もクラブがある。あなたはいつデートするの。教員10人いたとして、ゆっくり本を読んでいる人って、何人いるの。もし読んだなら、それを教えてちょうだい。

 学習指導に生徒指導、校務分掌、保護者対応、警察との連携、地域の見廻り。やってもやっても仕事はなくならない。仕事が仕事を呼ぶ構造。どんどんどんどん歳はとる。昔のように、卒業生から声をかけられる先生って、何人ぐらいいるのだろう。

 終身在職でもなくなる。10年で免許はなくなるかもしれない。賃金は安い。いまは景気がいい。雇用も少なからず向上している。現職の先生、あなたはそれでも教職を勧めますか。

 ちょっといいですか。

 現職の先生に聞きたい。あなたは、本当に、仕事が楽しいですか。評価SやAがほしいために、校長に擦り寄って楽しいですか。なんで先生やっているんですか。辞めたら生活に困るからですか。そんな消極的理由で先生が勤まるのですか。給料が問題なら、もっといい職があったんじゃないですか。

 心の底から、子どもたちと一緒にいて、楽しいですか。本音はどうなんですか。

 現場を知らない国の役人やなんとか会議に振り回されて、気持ちよくないんじゃないか。その上、文科省のキャリアがくるそうだけど、どう思う?

 ちょっといいですか。

 先生をめざす方に聞きたい。あなたはなぜ、先生なんかになろうとしているんですか。テレビや新聞をご覧なさい。現場は無茶苦茶ですよ。あれだけ学級崩壊してて、そこになぜいきたいのですか。自殺予告文が発表されるご時世ですよ。あなたのクラスの子どもに、ひょっとしたらそういう子どもが出てくるかもしれないのですよ。それでもなお、教職を目指すのは、なぜですか。身分の安定も、将来はわかりませんよ。

 いまの先生になりたい情熱を、何年持続できますか。できると思っていますか。

 あなたが男性でも、女性でも、生徒から暴力を受ける可能性もあるのですよ。それでもほとんど傷害罪などで告訴できませんよ。それをどこで解消しますか。

 ちょっといいですか。

 いまの教育現場、だれも管理職になりたくないらしいですよ。上からも下からも注文をつけられる。上は教育委員会。下は教諭たち。現場のシンドサから、みんな腰が引けて、管理職になりたくないんですよね。その上、ヨコから保護者が、無茶いいますよ。

 昇進したくない現場なんて、一般企業ではないですよ。そんな現場に市場原理が導入されて、どう思いますか。

 権限が強化される管理職ですよ。魅力ないのですか。なんで校長になりたくないのですか。

 教職は、人生を賭ける価値ある職といい切れますか。もしいい切れるなら、その理由を教えてほしい。本音でコメント下さい。教員になりたい学生が、「教職っていい!絶対なる!」といってきたとき、なんと答える?

 教職が不人気なのはわかっている。しかし、それでもなりたくてたまらない学生もいるのである。

 ワタクシは、すごく迷っている。

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表現の問題 [教育問題]

 お昼にネットでニュースをみていたら、「地獄に直行」の文字が目に入った。遅刻指導の文字もあり、なんのことなんだろうと思ってクリックしてみた。同じようにこの記事をみられた方も多いだろう。

 『朝日新聞』(2007年3月1日付)の記事では、どうやら遅刻をなくそうとして、ある先生が指導上の工夫をしたようで、それがいき過ぎた表現になっているのを咎められたというところである。件の先生は、「『1 イエローカード』『4 校長先生と面談』『5 地獄へ直行』など遅刻回数に応じた文言を書いた紙を廊下に張り、横に生徒名を付箋で張り付けた」という。まるで、遅刻の「番付表」である。

 生徒指導の双璧は、遅刻指導と制服指導である。前者は社会に将来羽ばたいていく生徒に、時間厳守の姿勢を育成するため、当然の指導であり、後者は、古くは非行への入り口として華美な服装をたしなめ、いわゆる「生徒らしい」服装を学校の主観によって設定し、これを遵守させようとする指導であろう。

 イエローカードはいいと思う。記事では2と3に相当する「処分」がないが、ここにはレッドカードが想定されていたのであろうか。「校長と面談」との表現も、ギリギリセーフといえよう。生徒にも「遅刻したらあかんねんな」と自覚させる効果がある。生徒は校長室を学校権威の源泉と捉えているだろうし、こうした特別の場所に叱られにいくこと自体が、心からの反省を惹起しよう。

 問題の「地獄へ直行」というのは、何の比喩なのだろうか。学校で、校長室に呼び出される以上に「コワイトコロ」はあるのだろうか。「地獄」とはどこなのだろう。阿鼻叫喚の血の池地獄なのだろうか。それとも針の山なのか。

 懲罰的運営として、奉仕活動に従事させることが教育再生会議で報告されている。「地獄」ではなく、何週間かの奉仕活動を義務付けることが、将来的には構想されるだろう。奉仕活動を懲罰として運用することの是非はあるけれども。

 ところで、件の教員の真意はわからないけれど、たしかに遅刻を繰り返せば、「地獄」に行くことになる。つまり、社会人として、勤め人として、何度も遅刻をすればどうなるか。社会人として規律を守ることができないようなら、解雇されても文句はいえない。記事には、回数表示がないけれど、1、2回でイエローなら、校長室は10回くらいか。すると、遅刻の常連が「地獄」行きとなる。毎日遅刻する生徒が、卒業して企業に就職されては困るのではないか。この先生の親心が、裏目に出て、新聞沙汰になってしまったのである。

 表現の問題なら、「地獄」は、マズイ。とするなら、なんといえばいいのか。あるいは、「保護者呼び出し」か。これが悪ふざけになれば「赤紙」などというようになるから、避けた方がいい。

 「番付表」にしたのはダメで、これを生徒個々人にカードとして渡すようにしていたならば、この先生の指導は正しいのではないか。事の本質は、遅刻指導以外に他意はないのだから。文中書いたように、レッドカードでとどめ、手渡していれば済んだ話ではなかろうか。そうすれば多感な中学生に「恥をかかせる」こともないし、みせしめというあまり教育的現象としてはよくない事態にもならない。そのカードの裏に、何か一言注意の言葉をこの先生なりに書き込めばもっとよかっただろう。

 ところで、記事は、こうも書いている。

 渡辺校長は掲示に気付いたが当初、「生徒の信頼を得ている」と黙認。一方で11月、文部科学省の職員が視察に訪れた際は外させた。視察後、男性教諭は再び掲示したが、12月下旬、他の教員の指摘で渡辺校長が外させたという。

 こちらの方が、重大である。「開かれた学校」になっていない。黙認するなら、「この世の中のすべての人間がキミを責めようとも、俺だけは味方になってやる」というべきではないか。文科省の小役人が来たぐらいで、オロオロして「番付表」を表示非表示するようじゃ、節操も何もない。学校全体としての遅刻指導の柱がないということが、このことで露呈したといえる。あるいは、こうした態度をとる校長にこそ、レッドカードなのかもしれない。

 フレキシブルな対応と、「やるといったら、やる」の対応と、メリハリある学校規律の思想化と制度化が求められる。

 
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市場原理下の学校-反論あり、同意あり [教育問題]

1.一般人の「市場」理解

 「市場機能の発揮こそ教育の質を向上させる」。週刊『東洋経済新報』(2007年1月27日号)のインタヴューに応じて述べた福井秀夫氏の断言である。

 市場とは、経済効率を第一に考え、ベターなものが相手を喰い、ベストなものがベターを喰う弱肉強食の世界だろう。とことんいいものが評価され値段がつく場である。だから、いいわけできない。数字は正直という奴である。この数字をめぐって凄まじい競争が勃発する。

 たとえば、デジタルカメラ競争をとりあげてみる。キャノンとナショナルと、競合する両社がデジタルカメラを生産し、その売れ行きに社内が支配される。どちらかがどちらかを駆逐するか。競争のうちに、キャノンならば、宇都宮ユニオンの大野秀之氏がうなるような製品製造過程の注意と技能を投入し、デジタルカメラ生産に血道をあげる。

 ナショナルはライカなどとも手を組むと同時に、美人女優をCM起用し販売促進に力を入れる。どのような方法を用いてもいい。このように、ひとつの商品でも価格競争があるから、ぎりぎりの闘いになる。しかし同時に、ある種の手打ちもある。すなわち、「神の見えざる手」である。だいたいの値段が決まり、よいものが消費者の手に落ちる。

 物品では、嗜好もあるし、ぎりぎりまでいけば、どの企業も似たような構造と価格に落ち着くのではないか、というのが、経済学の基本なのだろう。チラシに多種多様に並べられるデジタルカメラの値段の差異は、同じ程度の性能であれば、1万円もない。いや、3000円もない。どれをとってもそこそこに基本機能もよいし、みた目もいい。キャノンとナショナルが、カメラの分野でかぎっていって、共倒れになることはないだろうし、どちらかが暖簾を仕舞うこともない。ぎりぎりまでいけば、そうなる。ならざるをえない。

 市場の最大の価値はマネーである。笑いがさんざめくより、マネーである。マネーに結びつけば成功、そうでなければ失敗である。手段は選ばない。経済主義で効率を求めるとき、「少ないコストで最大のメリットを」となるわけで、これを実現するためには、犠牲、皺寄せがどこかにあらわれる。企業は倒れるわけにはいかない。社員や社員の家族の命を守らねばならないからである。路頭に迷わせるわけにはいかない。同じ論理が非正規雇用のものにも貫徹することを期待する。 

 技術と広報、需要と供給、発展と淘汰。ワタクシは経済学者ではないから、一般人として、市場機能を、このように簡単に理解している。

2.教育の断面ではどうか

 では、教育における市場原理の導入は、どんな結果をもたらすのか。福井氏は、教員がぬるま湯的世界につかっていると批判し、「緊張感がない」とはっきりいう。大学教員つまり福井氏の立場では、学生からアンケートを受けており、教員が評価されるのは常識であるという。

 ぬるま湯につかった教員をめざめさせるためには、荒療治も辞さないとの議論である。市場原理の導入が、教育現場を活性させ、ぎりぎりの勝負をさせる、と。学校同士が鎬を削り、よりよいサービスが該当地域の住民に提供できるとする。福井氏はそういう。

 6歳の子どもの目標とは何か。それは福井氏がいうように、厳しい競争に晒された現実的帰結としての受験能力の自主的獲得だけではない。それは一面的な見方であろう。短いながらも福井氏の書き方では、個人の多様な進路を考えず、大学進学競争だけに論点をあてた主張といえる。擁護する立場に立ったとしても、高校生にはあてはまるかもしれないが、小学生にはあてはまらない。福井氏は、まだ一流大学卒、よい企業への就職だけがゴールだと思っているのだろうか。しかも、子どもがこうした厳しい競争に晒されているから、先生もそうであってもいいじゃないか、というのも短絡的思考である。

 学校選択制にして市場原理に任せるなら、どのような教育目標であるのか定立させる必要がある。同じ土俵で戦うなら、キャノンもナショナルも文句はないように、学力勝負一辺倒な世界での勝負なら、そこに強制的に参入させられるのでないかぎり、文句はないといえる。

 しかし、現実はそんな単純ではなく、大リーガーをめざす諸君もいれば、デザイナーをめざすものもいる。大学に行きたくても行けない経済環境に苦しんでいるものもいる。大学入学は18歳年齢人口の50パーセントに達するが、進学しない50パーセントをどう捉えて福井氏はあの文章を書いたのだろう。なんだか、温かい目がない。

 さらに、教育環境が同一なら、こうもいえようが、教育に投資する経済は、家庭によってまちまちである。そうした一切合財を考えた上で、同じ土俵で競争するというのでないかぎり、選択制導入の理屈とならないのではないか。塾禁止をあらゆる児童生徒に適用することができるか、逆にすべての児童生徒に塾のための教育費を家庭に供給できるか。両方とも無理だろう。もちろん塾業界も、だまってはいまい。さらには、私学(小学校、中学校)は許可しないようにしなければ、平等な競争などといえない。

 もし、受験学力を主に獲得するのが目標だというなら、それは保護者のエゴの反映に過ぎないし、保護者の「目標」を反映するなら、個人の「人格の完成」は自主的完成ではなくなる。これでは、勉強さえできればいいといった思考が再来する。

 6歳の人間を預かり、11歳までの6年間で、最大効率を求めて、ベストにするとすれば、そこでは、反復学習をこれでもかとする放課後が待っている。このていでいえば、特別活動も不必要、体育や音楽なども不必要となろう。もっとも、特色ある学校の特色とは、学力だけではないということは、福井氏には想定されているだろうけれども、書いてあることだけを読めば、こう批判されても仕方ないであろう。

3.痛烈な批判は的を射ているか

 福井氏は、当ブログ冒頭のような言葉を表題に、教育への市場機能の適用、よくいえば切磋琢磨の思想を導入するよう主張する。これに対しては、いろいろと反論することができる。公立の学校の教員がいまでも聖職者気取りでいるかといえば、その認識は古すぎるし、競争原理を否定してるかといえば、そこまで現実を知らない教員はいない。すでに東京では人事考課制度、大阪では評価・育成システムが実施され、それらのシステムに同意不同意はあるけれど、それなりの競争意識や被評価対象たることの自覚があるといえる。

 公立の教員はたしかに税金で喰っているが、効果なき授業をすれば退場を命ぜられるといっても、研究を授業に反映させた結果がでるのは、何年かかかる。それに、教育という営為は、そもそも時間がかかる作業なのである。ラインに入れればできあがるデジタルカメラなどの商品と同じではない。

 こうした理屈をつめていけば、社会保険庁の公務員も税金で喰っているのだから、総退場ではないか。解体的出直しがなかなかうまくいかないなら総解雇だろう。福井氏にもこの点は同意してもらえるだろう。

 「教員免許など無用、むしろ有害」というのも解せない。最小限度の資質能力を判定せずして教壇に登場させることはできない。後で評価してダメなら退場というのでは、無責任に過ぎる。犠牲になるのは、ダメだったと後で評価を受けた教員の授業を受ける破目にあった児童生徒である。この責任を福井氏はどうとるというのだろうか。

 ある程度、刺激的にいわなければ提言の意味がないと福井氏が考えているのかもしれないが、また、紙面の限界から主張をコンパクトにしたのかもしれないが、ドラスティックである。

4.部分的同意点

 福井氏は、

 学校選択制にすると、地域とのつながりがなくなる、という批判もあるが、地域が子どもの教育に責任を持ってくれるのか

と喝破したが、これには反論がみあたらない。地域の教育力などまがいものであるとワタクシも思っているからである。

 「市場機能の発揮こそ教育の質を向上させる」の議論の中で、スパッとこうした指摘に出会い、ここだけは共鳴できた。地域は無責任であるとのこの命題は、多くの人びとにとっては、激震的表現に映るだろう。だが、地域の無責任性や地域が消滅してしまったと思っているワタクシにとっては、ここだけは福井氏に反論できない。むしろ同意である。

 学校・家庭・地域社会の連携と理念的に述べられるけれども、地域には具体性は何もない。学校はわかる。家庭もわかる。だが、地域は単なるその時々の善意でしか、何事をもしでかさない。地域運営学校が叫ばれたが、結果を残しているところはあるのだろうか。

 議論すべきは、目にみえる形で、地域の教育力なるものをみせてくれることである。地域の教育力の実態は、これであるというのをワタクシはみたことがない。学校安全を助ける行為はあるだろうが、授業に責任をちゃんともって(つまり、学力保障)、欠席することなく教育担当する地域はあるのだろうか。

 そもそもボランティア的な活動は「遊び」かもしれない。なんら責任を持つことなく、孫をかわいがるように、地域の子どもを見守ります、なんていうことを主張する地域は偽善である。リタイアした高齢者が横断歩道を渡る児童を注意深く見守っているけれど、事故があったときは、果たして責任を問われるのか。通学路で児童生徒を襲う傷害事件があったとき、地域の人びとは責任がとれるのか。みんな尻込みするだろう。最終的には、「わたしは善意でやっただけ」。これでは困るのである。

5.地域と市場原理の関係

 だが、また、しかし、地域の無責任性と教育の市場原理の導入とは、どうにも結びつかない。地域が無責任だからといって、市場主義原理を導入するべきだという主張に根拠があるのかどうか。

 市場原理の教育への導入は、厳しい評価で学校教育の在り方を変えていこうということを意味する。それに対し、善意があるだけ、地域の教育力は、まだ温かい目を持っていると評価してもいい。それもすべて拒否するところに、冷徹な経済の論理が貫徹する市場主義原理化の学校が成立すると考えればいいのだろうか。

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京都の北と南-爽やかな潮風漂う港町と教育管理強化の京都市 [教育問題]

 舞鶴はいいところである。もう何度も訪ねているが、海の幸豊富で爽やかな潮風漂う港町である。東西を走る国道27号線上のある地点を起点とし、南北に1本太い幹線国道がつながってT字をなし、この町を2つに分けつつインポートとエキスポートに貢献している。

 大江山の険しい道のりを峠越えする苦悩は、遠く昔日の井戸端話となった。さらに赤信号で何度も停止を余儀なくさせるところの、ウンザリする輸送業務からも、トラックドライバーたちは開放された。新しい高速が完備されたのは、もう数年前のことである。

 だが、見知らぬ間に連れ去られたひとたちのことは、今日の噂話からなくなりそうもない。また、大漁告げる漁船からの笑い声と違い、囂々とした機械音を潮風が運んでくることに、心ある人びとは憂いを漂わせている。こうした話題ほか、アジアの国々とアメリカが、どこかで集まり、議論したようである。

 ところで、同盟強化を謳い、アメリカと歩調を合わせて安全保障に名を借りたあらぬ道を進む日本の姿勢を叱りつけた、こういう味わうべき崇高な発言がある。

 日本に仁義の大道を起こさねばならない。強国になるのではない。強あれば必ず弱がある。この仁義の道をあきらかにして、世界の世話やきにならねばならない。一発で一万も二万も戦死するというようなことは必ず止めさせなければならない。日本は世界第一等の国にならなければならない。

 この言葉を鏡として現在の政府を映し出せば、アジアと欧米との間を跛行し、福沢のいわゆる「脱亜」の名残を惜しみ、暴力的方向に舵を切ったようにみえる。この言葉は、今を去ること約150年、福沢の時代よりもっと前、幕末期に活躍した経世家の言葉である。なんと立派な先輩を、ワタクシたちは持っていることよ。眠らせてはならない言葉であろう。F-22など配備すべきかどうか。

 さて、もう少し足を伸ばして、丹後半島は舟屋を訪ねるといい。鄙びた風景が広がり、カッパエビセンを狙うカモメが歓迎してくれる。都会の人間なら、そうした情緒に沈静作用を感ずること間違いない。ええにょぼ的人びとの営みが歴史を作っている漁村である。その暮しと人情には、古きよき共同体意識が残っているかもしれないが、都会者だからといって侵入拒否するような掟を定めていない。穏やかさと優しさとが人々の顔にこぼれる生活の知恵ある海の民の集落である。

 例の教員FA制が動き出してこれまた数年。京都府下3000有余名の先生方のうち、約5パーセントがFA名簿に記載されたが、その成果がでてきそうである。京都のこうした大胆な改革は、真に改革の名に値する。文部科学省を1歩も2歩もリードする試みと評価できる。図体が大きく腰の重い中央官庁に対し、京都のフットワークは見事である。大原女の健脚と物腰の柔らかさが偲ばれる。

 こうした改革が、地方で敢行されることによって、地方教育行政と中央教育行政の併存の歴史的意義が立証されるといえよう。異動するバリバリ教員は、自己の指導能力を信じて新天地で力を存分に発揮してほしい。だが、その先生が去り行く跡をいかにして埋めるか、それが残された課題のひとつとなる。

 一方、京都市はどうなのだろうか。

 教育再生会議のメンバーでもある京都市教育長門川大作氏の動きが活発になっている。テレビに顔がうつることも時折あるし、教委主宰の講演ほか、広報に忙しそうである。このように、“ある筋”から脚光を浴びる門川氏ではあるけれども、教育長として実施している政策には、疑問点が多い。むしろ、あり過ぎる。とりわけ、「教育実践功績表彰」は、問題だらけであることは周知の事実であり、住民監査まで請求されたにもかかわらず、教育長はこれをないがしろにしている。その結果、市民団体が原告として立ち上がり、裁判にすらなっている。ここで少し紹介し、原告を側面から応援している気持ちを表明したい。

 まず確認したい。教育長門川氏が行なっている「教育実践功績表彰」(以下、「表彰制度」と略記する)とはどのようなものか。ちょっと古いが『朝日新聞』2004年11月29日付の記事を引用し、手がかりとしよう。表題は「優れた先生、教委が折り紙 広がる表彰制度」である。そこでは、この表彰制度について、「教えるプロとして優秀な教員を表彰する動きは、首相の私的諮問機関『教育改革国民会議』の提案を受け、01年、文科省が『21世紀教育新生プラン』で言及したのをきっかけに加速した。永年勤続など年功型の表彰と違い、優秀な教員をたたえることで競争意識をかき立て、全体の底上げを図るねらいがある」と解説されていた。つづけて引用すれば、

 教科、生活の指導などで模範となる先生を優秀教員として表彰する教育委員会が増えている。指導力不足のレッテルとは対極の「折り紙つき」。特別昇給を用意する例もある。評価と処遇をリンクする新しい人事管理の広がりは、ねらい通り、第一線の教員の意欲を引き出し、学校の活性化につながるか――。
◆昇給や手当増も(中略)
 優秀教員表彰制度はここ3、4年で全国に広がり、文部科学省の調べによると、今年(2004年-kouの註、以下、年号に対する註にかぎりkouによる)4月現在、23都道府県が何らかの形で導入している。(中略)今後さらに拡大しそうだ。/ 優秀教員の選び方は教育委員会によって異なる(中略)。/ 文科省の調べでは七つの県が、表彰にあわせて給与面で特別に処遇している。岡山県、香川県などが昇級(ママ)を6カ月早める「6短」、佐賀県が「3短」だ。宮城県は、表彰を優秀、優良に分け、処遇に差をつける。優秀教員は特別昇給、優良教員は期末勤勉手当(ボーナス)の支給割合増加の対象となる。 (下略)
◆「管理強化」と市民提訴 京都
 京都市では、2年前から始まった教員表彰制度に市民団体が異議を唱え、法廷の争いになっている。/ 表彰人数が多いのが特徴。校長からの内申をもとに、3年目の今年(2004年)は約520人を選んだ。若手も積極的に表彰している。採用11~15年目という具合に在職年数の区分ごとに選ぶので、1人で何回も受けられる。/ これに対し、「『心の教育』はいらない!市民会議」は、ホテルでの表彰式、1人2万円の図書カードの記念品など、多額の費用は不当だとして、監査請求した。今年(2004年)4月には、京都地裁に公金返還を求める訴訟を起こした(註1)。
 市教委は「経験年数にとらわれず、熱意のある先生を応援することで、学校に活気が生まれた。先駆的な取り組みとして文科省から評価されている」と説明する。/ 一方、市民会議は「市教委のホームページなどに表彰者全員の名前が載る。外れたらまずいという空気。上の目を気にする、もの言わぬ教員を増やす」。教員の管理強化につながると指摘している。

となる。

 これを読めば、6短、3短など表彰の実質的内容に違いがあり、自治体によって独自色を持たせる「表彰制度」の概ねが理解されるだろうが、当の「京都市教育委員会教育実践功績表彰要綱1趣旨」によれば、「京都市教育委員会の所管に属する学校・幼稚園の教員、養護教員、常勤講師で、優れた教育活動の実践によって、当該校の教育活動の充実や広く本市教育の振興発展への貢献が認められる者の功績を称え表彰し、教員のさらなる意欲喚起及び人材の育成を図り、活力ある学校教育の実現を図る」というところに実施意図があるようである。京都市は、トロフィーで止めておけばいいのに、副賞を多々用意する。

 表彰の名称も都道府県でまちまちであり、「教育実践表彰」、「公立学校等職員表彰」、「模範教育関係職員」、「教育委員会職員功績賞」、「教育長表彰」などと、内容は微妙に違うだけだが、名称は多様である。

 上の記事からの引用文中に、「3年目の今年は約520人を選んだ」とあるが、京都市は、この数字、他の都道府県および政令指定都市と比べて異様。突出しているのである。文科省の公表「優秀な教員の表彰等の取組について(平成17年度の実施状況)」に拠れば、1位が京都の546人、2位は東京都の63人というように、都の8~9倍なのである。この数字だけでも京都市教育行政の態度はおかしいと感ぜられよう。ちなみに、3位がまた京都府で49人、大阪市は29人、大阪府は8人、少ないところだと山口県のひとりである。ゼロのところもある。どのような分野であれ、一般的に考えられる「表彰」は、それをあえて実施するにしても、上位数パーセントが、百歩譲って許容範囲だろう。そうでなければ、「表彰」の意味がない。「表彰」のインフレである。

 教育長門川氏が実質的推進者であるのに、京都市教委が「表彰制度」についてパブリックコメントを出している。そこでは、「京都市教育委員会では昨年度(平成14年)、教員の表彰制度として『教育実践功績表彰』を創設いたしました(中略)。優れた教育活動を実践することによって、当該校の教育活動の充実や広く本市教育の振興発展への貢献が認められる者の功績を称え表彰するものです。また、表彰によって教員のより一層の意欲喚起及び人材の育成を図り、保護者、地域の信頼に応え、活力ある学校教育の実現を目指します」(第2回 京都市教育委員会教育実践功績表彰 表彰選考委員会議について)と説明されている。

 京都市教委あるいは門川氏は、この「表彰制度」を自画自賛する。サイトでも簡単にみられるが、「教育実践功績表彰ニュース」(平成17年7月選考委員会コメント)では、以下のように綴られている。

 不安定な雇用の中で、30歳を過ぎても採用を目指して頑張っている常勤講師を表彰対象に入れるのは非常に励みになると思う。

 励みになるのはわかるが、それなら採用してやってほしいものである。だが、このように講師にまで表彰対象とし、網の目を張るのは、管理職の覚えがいい講師を採用するという不公正な方向に、教員採用事情が進行していることを意味しよう。ただ、行政は信頼しきれない。それは秋田の件をみてもわかる。前言を翻し、受験年齢を若いものに限り、長年がんばってきた講師の首を切るよう動いている。

 何人かを表彰した時に、教員同士がギクシャクするのではという意見が校長の中にもあった。教員の中にもそういう気持ちがあったと思うが、何年か積み重ねていくうちにそれは全くなくなった。意欲を出す教員が何人か出てくると、他の教員の頑張り方がすごく変わってきた。

 だが、「全くなくなった」などとは、全く信じられない。そんなことがあるはずがない。もし、全く「ギクシャク」がないならば、裁判など起こるはずがない。公金支出の是非だけが問題であるなら、提訴そのものの意義は薄いし、弁論継続は理論的にシンドイはずで、教員をめぐる統制の問題だからこそ、真相をあきらかにしようとする原告の提訴した意義が認められるのである。

 第2回目の平成15年度は、629人を選出、上の自画自賛文のように、やる気のある教員の意欲をさらに引き出そうとする「目的」であるが、その裏面には、京都市教育行政に忠実な教員を選抜する意図がある。すなわち、この「表彰制度」にはカラクリがある。上の朝日の記事にも載っている団体である「『心の教育』はいらない!市民会議」のいい分を聞こう。

 <教育実践功績表彰制度の問題点>
 京都市教育委員会事務局は(中略)、式典において被表彰者には、一人2万円の図書カードが支給され、その総額は2,601万円にもなっています(中略)。この表彰制度全体に要した費用は、総額で3,122万円もの大きな額になっているのです。京都市は深刻な財政危機に直面し(中略)、継続事業についても経費が大きく削減されている真っ最中に、市教委ではこのような馬鹿げた無駄遣いが行われていたのです。
 京都市立の公立学校の教員は約5400人ですから、2年間ですでに2割以上の教員が表彰されたこととなります。この教育実践功績表彰は、「毎年行う」と要綱で定められていますから(中略)、約10年で、ほとんどの教員が表彰を受けることとなります。これでは(中略)、ほとんどの教員への一律支給という他ありません(中略)。
 今回の表彰は、教育長が決定した「要綱」に定められているだけで、2年間で3千万円を超えるような有価物(図書カード)の支給は、地公法違反です。また、そもそも「表彰」については教育委員会の権限に属する事項であり、教育長がその独断で実施することはできません(中略)。
 被表彰者の決定は、あくまでも校長からの内申にもとづいています。校長のお気に入りにならなければ受けることができないのです(中略)。被表彰者は、「履歴事項として賞罰欄に記載する」ともされています。このように、この表彰制度は、校長の権限を強化し、教員を分断して序列化することを狙ったものであることは明らかです。

http://sugakita.hp.infoseek.co.jp/newpage21.htm

 同市民会議は、苦しい京都市の財政事情を棚上げしたまま教員表彰にカネをかける教育長の横暴を批判し、住民監査請求に及ぶ。京都市監査委員会の調査結果に盛られた批判的指摘は、同会議にとって一定程度評価できるものであったが、最終的には請求棄却であった。まか不思議なことである。同会議が訴訟に踏み切るのも当然であろう。全国で突出する表彰者の数、その記念品にかける公金の多額さ、華美なホテル式典の敢行、そもそも「表彰制度」の権限者が定かでないこと、など、誰がどうみても不自然なカラクリである。

 表面的には金員請求になるのであるが、2004年4月8日にはじまる行政訴訟「違法公金支出金返還請求事件」は、金員獲得が、方を付ける内容ではない。裁判を通して、ここに至った行政態度をオープンにし、将来の京都市行政の透明化、京都市教員の正しい「評価」の在り方をあきらかにするところに、この闘いの意義があるといえる。

 「校長の権限強化、教員の分断、もの言わぬ教員づくり」。この3者を厳しく批判し正常化しようとするのが裁判の本質である。この提訴の効果は、京都市給与課のページにおける該当項目の更新停止にいまのところあらわれている。

 2006年12月19日に結審、この3月28日の午後1時10分に判決、於、京都地裁。

 京都の北と南では、顔つきがどこか違うのだろう。

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(註1)

 http://sugakita.hp.infoseek.co.jp/newpage12.htm を参照のこと。

 是非とも、このリンクを参照されたい。そして、「『心の教育』はいらない!市民会議」に認められる崇高な問題意識を共有することを願ってやまない。

 http://inariyasauce.blog71.fc2.com/index.php?q=%CD%A5%BD%A8%B6%B5%B0%F7%C9%BD%BE%B4%BA%DB%C8%BD

 なお、上記も参照、期待。

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印象・音楽・支配・黒 [徒然]

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・日産のウイングロードのCMが流れるたびに、みのもんた氏が出てこないか心配になる。

 これは、CMとしては、失敗作だと思う。なぜなら、「その音楽を聴けば、この商品」というように印象付けられてこそ、CMは価値が高いと思われるからである。あのテーマソングが流れたら、ブルーの車がイメージされて然りなのに、黒い顔のみのもんた氏が、先に頭の中に登場するのだから、始末が悪い。

 どうも、この世の中、みのもんた氏に支配されているような気もする。朝の番組では、あのテーマソングに乗って、颯爽とスタジオに入ってくる。そして昨日および新しく飛び込んできたニュースを批評する。個人が一定の思想信条を持っているかぎり、ニュースにせよ、それを偏向なく伝えるのはむつかしい。しかし、ニュース解説に踏み込むのなら、自分なりに中立性を自覚しないとならない。みの氏は、ご自身がよかれ悪しかれ社会に大きな影響を与えていることを、自覚しているのだろうか。

 そして、昼の番組は、各企業が戦々恐々として見守る時間となる。自社の製品の売れ行きを左右する恐怖の番組だからである。みの氏が褒めれば、売れる。けちょんけちょんだと、サッパリ。昔、このことについて、「公器を使った凶器だ」、と評した友人がいた。いいえている。

 夜はクイズ番組などに登場するが、まあ、これはあの黒い顔がクローズアップされるわけで、やられる方はたまらないんだろうけれど、芸のひとつだからいい。ワタクシも、イヌを相手によくやる所業である。このクローズアップによって被害を被るのは、出場の一般クイズ回答者か、芸能人だけだからである。茶の間では、目が悪くなるので、この模様を遠くからみているだけだろうから。

 閑話休題。

 商品を印象付けるために音楽を使うという観点から成功したのは、同じ車産業なら、マツダだろう。あの、「ZOOM、ZOOM」のテーマソングによって、すぐにマツダの車が頭の中に連想されるからである。いまでもあの曲を聴くと、マツダだな、と瞬時に思う。

 それにくらべて、なのである。

 それにしても、この音楽印象効果は、すごいものがある。朝、昼と、みの氏が登場するのは、それが番組表でわかっているから避けられもする。だが、CMにはそうした容赦がない。

 朝、昼、そして、ゲリラ的に、みの氏の影をワタクシたちは背負っているといえる。人間の深層の反応とは怖いものだと思う。いつのまにか、あの黒い顔が一日中を支配するのである。

 このゲリラ的に来るのが、一番シンドイ。ワタクシの生活には、もうテレビは必要不可欠だから、CM拒否できないかぎり、こうした「精神的苦痛」を被ることは、税金を払うことと同一なのかもしれない。あ、そういえば、確定申告にいかなくちゃ。

 日産は、その売れ行きを、期せずして、みの氏人気にあやかっているとすれば、これはマイナスだろうから、自社イメージを独自性あるものにするため、思い切ってテーマソングの変更を考えるべきであろう。

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特別支援教育と障がい者施策-その批判的考察- [教育問題]

はじめに

 小論は、乾いた美文で説得力あるようにみえる制度設計を答申などで示すものの、実際には規模縮小の方向に動いている特別支援教育の現実と、政治によって片隅に追いやられ、今にも切り捨てられそうな障がい者施策の現状を批判するものである。

 「特別支援教育」と「障がい者施策」とは、障がいのある個人にとっては将来的に接続し、共通する問題点を有していると思われる。この2つのリンケージする課題の考察の出発点として、障がい者施策が公教育現場でどのように施策化しているのか検証する立場から、「障がい児教育」=「特別支援教育」そのものの動向を、第1に注視したい。その際、まず、障がい児教育をめぐる用語の使用法について論議する。なぜなら、用語の使用法は、その具体的中身を批判・検討するきっかけになるからであり、また、それに鈍感であった教育行政がどのように態度を変化させたのかを探るためでもある。ここで述べられる用語の使用に対するコメントは、障がい者、障がい児にある程度、共通するものである。

 それゆえ次に、特別支援教育をめぐる動向を、特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議「今後の特別支援教育の在り方について」(最終報告)平成15(2003)年3月28日<以下、「協力者会議」および「最終報告」と略す>、中央教育審議会答申「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」平成17(2005)年12月8日<以下、「特別支援制度答申」と略す>における中央行政レベルでの議論を確認し、第3に、特別支援教育とノーマライゼーションの思想の関係性についても検討する。そして、第4に、変更された最新の法規を時系列に沿って簡単に確認する。

 以上の分析を踏まえて、第5に、報告書や答申の思想、教育法規の理念が適切に現場に行き届き、執行されているのかどうか、その具体的波及を観察するため、ケーススタディとして貝塚養護学校存続問題に触れる。さらに、障がい者の行政に対する批判意識を紹介する。最後に、教育に限定せず、広く障がい者施策を批判する立場から問題点を示唆し、議論を閉じたい。

1 障がい児教育における用語の問題

 「特殊教育」は、今日、大きな変貌を遂げようとしている。それは、ここ20年の状況でいえば、平成元(1989)年度の学習指導要領において「第5章 養護・訓練」と表題が記されていた「第2 内容」が、平成10(1998)年度学習指導要領では「第5章 自立活動」と規定された「第2 内容」へと衣装変えしたことに、端的にあらわれている(平成15年一部改正版も同一の表記。10年版と15年一部改正版とにおける改正内容は、主に総合学習に関わる変更なので、特別支援教育を主題とする小論では、以下、学習指導要領に言及する際、「10年版」に基づく)し、今日的議論でいえば、「特殊教育」から「特別支援教育」へと大きく枠組が変わる骨格そのものの変貌としてあらわれている。

 前者の学習指導要領における障がい児教育「内容」の衣装替えは、具体的な指導の「内容」の名称変更にもおよび、「身体の健康」、「心理的適応」、「環境の認知」、「運動・動作」、「意思の伝達」の5項目は、それぞれ、「健康の保持」、「心理的な安定」、「環境の把握」、「身体の動き」、「コミュニケーション」というように、単に障がいのある児童生徒の機械的、訓練的なルーティーンワークのニュアンスを捨て去り、障がいのある児童生徒個々人の自主的な学習活動を意欲させるいわば人間味のある表現となっている。すなわち、自分で「保持」し、自分で「安定」させ、自分で「コミュニケーション」するということを意図させるよう改訂されているのである。

 当然ながら、目標も変更されている。すなわち、「自立」という表現のまったくない平成元年度小中学部学習指導要領から、「個々の児童又は生徒が自立を目指し、障害に基づく種々の困難を主体的に改善・克服するために必要な知識、技能、態度及び習慣を養い、もって心身の調和的発達の基盤を培う」(平成10年度版)という「第1 目標」の規定の下、従来の受身的な表現から能動的な表現への変更は、望ましいものであり、評価に値するといえる。

 後者については、最近の答申に触れつつ次節で議論の俎上にのせることになるが、さしあたり見通しを述べておけば、この抜本改革は、障がい児教育の質的向上を目指す素晴らしい理念・姿勢と、それを実現しようとする現実的つまり予算的措置との板ばさみに文科行財政が遭遇し、その苦しい「公然の秘密」的台所事情を「隠し」ながら、報告・答申の文面にかなりの程度融通の利く、解釈の余地がある文言を披瀝し、制度構築にあたって自由度の高い改革となっていることを指摘しておこう。

 以上のように、新しい平成10年版学習指導要領には重要な意義が認められるけれども、ここに確認した指導の「内容」の名称変更にみられる小規模な規定変更を導火線にし、報告・答申を踏まえた大枠変更という障がい児教育改革路線に沿って、日本全国に993校ある特殊教育諸学校がすべて「特別支援学校」となり、よくも悪くも、「21世紀的」改革の波に洗われようとしているのが、現在の障がい児教育をめぐる状況といえる。

 こうした大枠変更の背後には、「新しい障がい」といわれるLD、ADHD、高機能自閉症の児童生徒への対応をいかにするべきか試行錯誤する教育現場および教育行政の姿勢がある。そこで、用語の問題に注目するこの節では、あらかじめこの「新しい障がい」の定義を、文部科学省「小・中学校におけるLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥/多動性障害)、高機能自閉症の児童生徒への教育支援体制の整備のためのガイドライン(試案)」(平成16年1月)を基に明示しておこう。

 この「ガイドライン」は、平成11(1999)年7月の文部省の「学習障害及びこれに類似する学習上の困難を有する児童生徒の指導方法に関する調査研究協力者会議」の報告である「学習障害児に対する指導について」、「通常の学級に在籍する特別な教育的支援を必要とする児童生徒の全国実態調査」(平成14年、文部科学省)、そして「最終報告」を受け、さらに、具体的局面としては「学習障害児(LD)に対する指導体制の充実事業」が全都道府県で実施され、平成15年度からADHDや高機能自閉症をも含め支援体制の構築に向けた「特別支援教育推進体制モデル事業」が全都道府県で開始されたことを背景に作成着手されたガイドラインである。

 では、LD(Learning Disabilities:学習障害)について、どのように規定されているだろうか。学習障がいとは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち、特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指す。なお、学習障がいは、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障がいがあると推定されるが、視覚障がい、聴覚障がい、知的障がい、情緒障がいなどの障がいや、環境的な要因が直接的な原因となるものではない、とされる。

 また、AD/HD(Attension Deficit / Hyperactivity Disorder:注意欠陥/多動性障がい)とは、年齢あるいは発達に不釣り合いな注意力、及び/又は衝動性、多動性を特徴とする行動障がいの典型である。この障がいは、社会的な活動や学業の機能に支障をきたすものである。注意欠陥/多動性障がいは、7歳以前にあらわれ、その状態が継続し、中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される、とされる。

 高機能自閉症はどう定義されているのであろうか。高機能自閉症とは、3歳位までにあらわれ、他人との社会的関係の形成の困難さ、言葉の発達の遅れ、興味や関心が狭く特定のものにこだわることを特徴とする行動の障がいである自閉症のうち、知的発達の遅れを伴わないものをいう。また、中枢神経系に何らかの要因による機能不全があると推定される、と述べられている。

 このように、「中枢神経系に何らかの要因による機能不全がある」と推測されるに過ぎない医学的解明段階であって、この「新しい障がい」の原因は、今もなお不明といわなければならない。その根本的な解明が待たれるが、少なくともその判定には医学的知見からの判断があってはじめて「新しい障がい」と認定されるべきで、逆にいえば、この医学的判断の必要性自体が、学校で教員が恣意的に「新しい障がい」児であると判別してはならない根拠となる。

 なぜこのようなことをいうかというと、「新しい障がい」といわれるLDやADHDは、ある面、「子ども狩り」のような感じで方便的に使われ、「行動の不自然な子、悪い子」を「『新しい障がい』という『病気』」に確定させて学校現場から疎外し、葬り去るような風潮がみられるからである。名指しで「あの子LDやからなぁ」という会話が懇談会や授業参観で交わされるようになってきている。このような保護者の態度には極力注意しなければならない。教員も然りである。まるでこの「新しい障がい」を示す言葉が流行のように使われ、新たな教育差別を生みつつあるのである。このあたりのことを盲・聾・養護学校の特別支援教育を専門とされている先生方は、危機を感じると同時に深く心を痛めておられる。

 いずれの場合の障がいに関しても、障がいが先に認識されるのではなく、人間が先に認識されるPersons with disabilitiesの発想を貫く基本的姿勢にワタクシたちは立つべきである。
 
 さて、「特殊教育」の用語は、つい最近の改正(平成18年6月21日法律第80号、平成19年4月1日施行)まで流通していた(いる)使用法であり、法律の正統な表現では、現在(未施行ではあるが)「特別支援教育」である。法律上の文言において「特殊教育」の名称がなくなるのは朗報といえる。よくいわれるように、「特殊」が「普通」に対する対義語ではなく、「一般」あるいは「普遍」に対する対義語であることから使用法がおかしいと指摘されていたのだが、この経緯からしても朗報である。

 この呼称廃止と同時に、「特殊教育」を用語として表現・採用していた時代から、その対象児童生徒に「障害」があるということをもっぱらの理由に、この分野の教育について「障害児教育」との全称的表現が与えられてきたが、「障害児教育」も、「障がい児教育」と変更されることを強く望む。もっと要求すれば、この言葉そのものが消滅することを望むものである。代わりに、たとえば「支援児教育」や「自立支援児教育」と表現すればいい。おそらく時代の流れはそういうふうに進むであろう。

 小論でも「障害児教育」という表現を使う場合があるが、従来、メディア媒体、研究書を問わず「障害」と表記していることに違和感を覚える筆者は、資料類からの引用以外のところでは、すべて「障がい」というように、この「はじめに」における該当箇所をも含め、平仮名表記していることをお断りしておく。

 ちなみに、「特別支援制度答申」のあるところで、「現在の学校教育法における特殊教育の規定にある『欠陥』や『心身の故障』等の語については、特別支援教育の理念にふさわしくないと考えられることから、特別支援教育への転換に伴う法令上の用語等の見直しについて法制的な検討を行う必要がある」と教育用語の改善を注記しているのは、妥当であった。「故障」というように法令は冷たくむごく規定してきたが、障がいがあろうとも人間は血の通った存在であり、機械ではない。この「欠陥」という言葉使いに胸を痛めてきたワタクシとしては、「障害児教育」論議が活発化するとき、つまり答申などが出されるときは、いつも即時変更を要求してきた。少なくとも「特殊教育」の名称廃止が陽の目をみて、よろこばしいかぎりである。

 ただしかし、それをどう変えるかは難しい。たとえば、いま、「欠陥」=「個性」と捉える捉え方が主流であるから、表記を「個性」とするのも考えられるが、これはこれでしっくりいかない。文科省はこれにいかなる決着をつけたのか。この変更に関しては第3節で述べよう。それに、この点に関わって、もうひとつの問題も絡んでくる。

 というのは、障がい児教育、特別支援教育は、国民の教育権を守る立場からいってその保障が不可欠であるのはいうまでもないとしても、健常児とまったく同一の教育課程を履修することは絶対的に無理であり、障がいのある児童生徒の保護者は、是非とも有効な内容の特別支援を心待ちにしているということに関連する。すなわち、「個性」といってしまうと、健常児の「個性」も障がい児の「個性」も同じ範疇で捉えられかねないし、特別支援に対する制度保障が低下するのではないかと、とりわけこの制度を必要とする障がいのある児童生徒の保護者国民が猜疑心を持ってしまうかもしれないのである。「必要な『支援』」は、「『必要』な支援」なのであって、たとえ財政に苦しむとしても行政が本件に関して手抜きしてもらっては困るわけである。切り捨ての特別支援は厳につつしまなければならない。

 昨年の年頭、『朝日新聞』(2006年1月8日付)は、盲・聾・養護学校の名称変更そのものについてではないが、「特殊学級」から「特別支援学級」への転換に関し、次のような記事を書いていた。「文部科学省が今月召集の通常国会に提出する学校教育法改正案の骨格がわかった。存廃が論議になってきた小中学校の特殊学級は、存続を保護者らが望んでいることに配慮し、07年度をめどに『特別支援学級』と名称を変えて残す。盲・ろう・養護学校は複数の障害に対応する『特別支援学校』に改める。また法改正と併せて文科省は省令を改正し、学習障害(LD)、注意欠陥・多動性障害(ADHD)などの子供についても適切な指導が受けられる仕組みづくりをめざす」。実際は、「特別支援学級」ではなく、「特別支援教室」となるのであるが、やはり保護者は「学級」レベルにおいても「存続」を強く望んでいるのである。

 つづけて同紙は、法改正によって、法令から特殊教育の用語が姿を消すことを伝え、「今後は障害のある子供の自立や社会参加への取り組みを支える『特別支援教育』に名実ともに転換する」と述べるが、学習指導要領もまたこの変更に応じて改正される可能性が高い。2007年1月現在、官邸主導といっていい教育再生会議が中間報告を出す時期であることから、もし近々学習指導要領が改訂されるとして、そこで明記される障がい児の「社会参加」が掛け声倒れにならないよう、社会参加の措置責任を国、地方自治体が負うとともに、やがて社会に巣立つ障がい児のために、企業の方から就職・採用に関する規定を「努力義務規定」ではなく、「必須規定および違反罰則規定」にするような、「ウルトラ発言」がでることを願ってやまない。

 「特殊教育」の高等部に進学する生徒数が増えている昨今、障がい者の社会参加を経済的自立つまり就業と絡めて指導することが一層期待され、従来の鍼灸への道や歯科技工への就職のほか、多様な就職先を開拓、確保しなければならない。知的障がい養護学校が、簡易作業を企業から下請けまたは業務委託され、またたとえばパンを焼くなどの就業体験をし、社会へ旅立つ準備運動をしているけれども(註1)、こうした注文受け付けが不景気の中、頭打ちになっている現状からすれば、企業の倫理的な就職協力体制に依頼するだけでは苦しい。

 企業は経済不況や企業構造の合理化による人材整理を根拠に、障がい児の雇用を放棄せず、たとえば、お菓子のメーカーだとか、おもちゃのメーカーだとか、子どもの成長に深く関係する企業は、自らの小さな「市場開拓」のためにも積極的発言を求めたい。

 さらに、同紙は「新しい障がい」児が全児童生徒の約6%(約68万人)存在する一方で、彼らは「特殊学級や『通級指導教室』の指導対象にはなっていない」(註2)と指摘する。ここからは、「新しい障がい」児を通級指導教室で対応させるのがよいとみなす『朝日新聞』の思惑が読み取れるのであるが、それがいいかどうか。ここでも「必要な『支援』」は、「『必要』な支援」との意識から、相当難しい制度的枠組を想定しなければならないだろう。ノーマライゼーションの理念を活かしつつ、93年に出発した通級指導の充実した校内構想をどう樹立するかが問題となる。この特別支援教室の在り方、法的規定が、この分野の最難関事項である。交流教育、共同学習、どう呼ばれようともいいが、健常児と障がい児とがクロスする現場の難しさは、教育界に生きるものであっても、想像を絶する問題を胚胎しているのである。

 では、このように学校教育法を改正する原動力となり、特別支援教育に関する教育用語の変更をついに実現させた中央行政レベルでの議論は、いかなるものであったのか、節を変えて跡付けていこう。

2 特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議および中教審の教育思想と制度構想

ⅰ 「最終報告」の特別支援教育思想

a 「最終報告」の課題意識の考察

 この「最終報告」は、従来の障がい児教育研究の達成を踏まえると同時にその限界をも指摘し、障がいのある児童生徒に対する教育の一層の充実を図るという理想的観点から、学校の役割や機能、新たな教育のニーズに対応するための体制など、学校教育の全体的なシステムやそれに関わる法令制度に主に焦点をあて、2つの課題解決を織り込んだ提言の、文部科学省への報告書である。

 その課題のひとつは、障がい種別の枠を超えた盲・聾・養護学校の在り方についてであり、もうひとつは、前節で定義を紹介した小・中学校等におけるLD、ADHD等への教育的対応についてである。こうした障がいのある子どもたちのための教育の新たなシステムづくりや制度の再構築を目指す「協力者会議」、ひいては文科省のチャレンジは、どのような内容を持つのか。また、こうした従来からの障がいと新しい障がいとを一括りにして制度化することは、現実的な試みといえるのだろうか。

  まず、「協力者会議」は、障がい児教育の実態を科学的に捉えようとし、量的・質的変化についての分析を議論の端緒としている。そこでは、近年、養護学校や特殊学級に在籍している児童生徒が増加する傾向にあり、通級指導を受けている者も平成5(1993)年度の制度開始以降増加してきているという。また、『朝日新聞』も報道したように、「新しい障がい」と範疇付けられるLD、ADHD、高機能自閉症の児童生徒を含め、学習や生活の面で特別な教育的支援を必要とする児童生徒数について、全国実態調査の結果が、約6%程度の割合で通常の学級に在籍している可能性を示していることを特筆する。

 さらに、「協力者会議」が報告した平成15年3月の時点で、盲・聾・養護学校に在籍する児童生徒の障がいの重度・重複化が進んでおり、ほぼ半数近くの児童生徒が重複状況にあるのだが、こうした状況を知って指をくわえたままであってはならないと、「協力者会議」は憂いている。このほか、肢体不自由児対象の養護学校等では、日常的に医療的ケアを必要とする児童生徒が増加しているし、知的障がい養護学校に多く在籍している自閉症の児童生徒に対する適切な指導法の開発が課題となっているとする。こうした養護学校をめぐる実態的変化を踏まえて、今後の適切な教育的対応を考えていくことを指摘する。

 「協力者会議」は、上のような分析から、従来の盲・聾・養護学校では、「新しい障がい」に苦しむ児童生徒への支援を含め、このままでは障がい児教育の「現実」に対応できないとし、包括的な枠組みを打ち出す。それが障がい種を包括し教育担当する特別支援教育の提起につながる。具体的には、特別支援教育を実施する「特別支援学校」の構想である。「協力者会議」では、この特別支援教育を定義し、「これまでの特殊教育の対象の障害だけでなく、その対象でなかったLD、ADHD、高機能自閉症も含めて障害のある児童生徒に対してその一人一人の教育的ニーズを把握し、当該児童生徒の持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するために、適切な教育を通じて必要な支援を行うもの」としている。

 特別支援教育は、障がいのある児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するためのものでなければならない。したがって、盲・聾・養護学校と小・中学校の常日頃からの情報交換、福祉・医療、都道府県および市町村教育委員会の協力体制など、各関係機関の有機的連携と協力が叫ばれることとなる。そうであれば、障がいのある児童生徒個々人についての情報が一括して理解され、個々のニーズに応じた支援を充実させるために、カルテ的なものを用意する方策として「個別の教育支援計画」のための「追跡データベース」を作成するのも妥当な方策といえる。

 すなわち、教育、福祉、医療、労働などの関係者が一体となって乳幼児期から学校卒業後まで障がいのある子どもとその保護者等に対する相談・支援を行なう体制の整備を進めると同時に、そうした個々の分野の担当者の得た情報を共有化する。こうした情報共有を基に改めて教育支援の在り方を再調整し役割分担を効率化するわけである。そのとりまとめ役として、特別支援教育コーディネーターという役職が、各学校の校務分掌に位置付けられるようになってきている。もう少し、特別支援教育コーディネーターについて解説しよう。

 結局、「協力者会議」によれば、特別支援学校であるなしに関わらず、各学校には、障がいのある児童生徒の発達に関する知識を持ち、障がいのある児童生徒に対応できるカウンセリングマインドを有する者を、「特別支援教育コーディネーター」として設置するよう提起するのである。このコーディネーターの役割は、そこにとどまらず、学校内また関係機関や保護者との連絡調整役を担う者として位置付けられ、校務分掌の一部門となる。もちろん医療など関係機関との連携協力の体制整備を図る仕事も受け持つ。とすれば「コーディネーター」は、かなりの仕事量を担当することになるが、各学校の「コーディネーター」をまとめ、場合によっては研修指導する役割が、都道府県を責任主体とする特別支援学校に担当命ぜられるわけである。

 そこで議論は、いまの体制下の盲・聾・養護学校の先生、各学校の特殊学級の運営に責任を持つ先生=「コーディネーター」が協力し合い、教育方法を高度化する総合研究所たる特別支援学校に変化させることや、障がいのある児童生徒にあって、特別の教育的支援を必要とする者に対する支援を行なう地域の特別支援教育のセンター的役割を果たす学校への転換が焦点となる。そしてさらに「広域特別支援教育連携協議会」なるものも登場することになる。

各学校   特別支援学校(市立など)   各学校
 ↓       ↓                 ↓
特 別 支 援 学 校(都道府県立・センター的役割)・広域特別支援教育連携協議会
 ↑       ↑                 ↑
各学校   特別支援学校(市立など)   各学校

 多様な教育的ニーズに対応するとの観点に立ち、特定の障がい種のみを受け容れる「盲・聾・養護学校」の制度から、各地方公共団体において地域の実情に応じて障がいのある児童生徒に対する教育的支援を充実することが柔軟にできるように「特別支援学校」に改めると主張するのも、ひとつの根拠は上のようなところにある。

b 「最終報告」における特別支援教室についての提言の考察

 その一方で、「特殊学級」がある。この「特殊学級」は、盲・聾・養護学校に在籍せずとも、ある場面では十分に健常児と学習をともにすることができる軽度の障がいのある子どもが対象である。軽度障がい児の教育の場として「特殊学級」は存続が当然であるが、これを「特別支援教室」に改変するよう「協力者会議」では検討されていた。

 小・中学校に在籍し、通常の学級つまり原学級あるいは親学級に在籍した上で、障がいに応じた教科指導や障がいに起因する困難の改善・克服のための指導を必要な時間のみ特別の場で教育や指導を行う形態をとるようにする。この場合、障がいのある児童生徒は、できるだけ自らが在籍する学級において他の児童生徒とともに学習し、生活上の指導を受け、障がいに配慮した特別の教科指導や障がいに起因する困難の改善・克服に向けた自立活動といった特別の指導が必要な時間を、この特別支援教室において担当の教員等から指導を受けることになる。

 ところで、従来の「特殊学級」は「学級」という枠組を軽度障がい児に提供し、できれば学年別、障がい種別に「特殊学級」を用意しようとしていたのに対し、今次は、「特別支援教室」というように、「教室」なのである。つまり「学級」であれば、複数用意することが可能な表現であるのだが、「教室」では、「学校にひとつ」と確約されたようなものである。これは、学年別、障がい種別に自立活動支援をするのではなく、学校における障がいのある児童生徒を一括して必ず対応するという方針のあらわれではなかろうか。たとえ変更があったとしても、「特別支援学級」にすべきところを、このように変更した根底には、よくいえば文科省の別学体制打破の思想がうかがえる一方、統合し簡略化する発想も滲み出ているといえよう。こうした「教室」化の方針は、「特別支援制度答申」でも継承されるのであった。

c 「最終報告」へのコメント

 21世紀の障がい児教育は、「特殊教育から特別支援教育へ」推移すべきであり、障がい児一人ひとりの「教育的ニーズ」に対応するべく配慮をしようと、「協力者会議」は考えているようである。だが、障がい種に呼応した教育的対応をしてきた盲・聾・養護学校体制を、「協力者会議」が切り崩す方向に舵をとったというように、否定的な評価を下すこともできる。盲学校には、盲学校の専門性に長けた支援世界がある。聾学校、養護諸学校にしてもそうである。この体制が、いままで「分断的であった」とみるのは、誤りであろう。それぞれの障がい種に応じた教育的指導の蓄積が、障がいのある児童生徒の苦しみを緩和し、最善の指導を可能にしてきたのである。継続的に担当する教員が、個々の児童生徒の障がい状況を手に取るように理解できたのも、細分化され、緻密化された障がい種別の学校体制があったからではなかろうか。上の「推移」は、単に行政の教育財政合理化政策が、教育行政の「一番弱い部分」に圧力をかけた措置であるといわなければならない。

 教育財政合理化を優先し、我が国の特別支援教育行政は、個々の障がい種に応じて配慮することを放棄し、「特別支援学校」に統合するよう動き出した。このままでは、特別支援教育財政が圧縮されるのはあきらかである。盲・聾・養護学校の種別に「建築」された学校は、徐々に統合化の憂き目にあう。たとえば、それぞれの種別の学校が3校あったとして、それが1校に統合されるとすれば、他の2つの校舎は破壊される。それは、従来の教育スペースが削られることを意味し、物理的に数値的に計れる教育サービスの低下となる。これで特別支援が充実するとは到底いえない。統合は、他方を削減する方便といっていいのである。

ⅱ 中央教育審議会の特別支援教育構想 -思想の制度化-

a 「特別支援制度答申」における特別支援「学校」の構想

 「特別支援制度答申」は、いままでに話し合われてきた特別支援教育論議の行政側の集大成であるといえる。「特別支援制度答申」は、日本が健常者も障がい者もへだてなく生活を送ることができる「共生社会」化しつつある現実に立ち、これを一層進める観点から、「制度」としての特別支援教育の充実を図ることをメインテーマにしている。ということは、この答申のめざす理想的社会は、障がい児教育だけでなく、障がい者施策をも視野に入れて総決算したい希望を持っていると解釈できる。また、将来的に、特別支援教育と「通常の教育」の別学体制から脱却し、それを一本化することを中教審は検討事項に入れているのではないか。そう推測させるに足る改革内容を「最終報告」から引き継いでいるからである。このことは、ノーマライゼーションの理念とどうぶつかるのか、ぶつからないのか、先の「特殊学級」存続を切に願う保護者と、どういう関係にあるのだろうか。

 ところで、この答申そのものの位置付けからいえば、「最終報告」のまとめ役が調査研究協力者会議主体であったのに対し、今回の特別支援教育政策が、法律に基づいて設置された中教審から「答申」されたところに、最大の意義があるといえる。すなわち、それは、この「特別支援制度答申」が、文科行政の基本指針となることを意味するので、注目しなければならないのである。しかしながら、前段に検討してきた「最終報告」を越える内容や提案を新たに示すものではないし、本質的な施策転回は見受けられない。「特別支援制度答申」は、「協力者会議」の具体的検討を制度的に表現し、お墨付きを与えたのみである。たとえば、中教審の「特別支援教育」の定義も、「『特別支援教育』とは、障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものである」としており、「協力者会議」の「最終報告」と変わるところはない。

 その意味では、「議論の塗り直し」が行なわれたに過ぎない。その「議論の塗り直し」の中でも、少し厚塗りしたところがあるので、ここではそれらを分析対象にしよう。なお、「特別支援制度答申」において「(仮称)」として表現している部分については、すでに法規上表現が改正された(る)ことであるし、煩瑣に及ぶので、小論では省略する。

 さて、「特別支援制度答申」は、特別支援教育を進めていく上で、現在の制度を様々な教育的ニーズに適切に対応し得る必要があるとし、とくに障がいの重度・重複化への対応、LDなど新しい障がい種への対応が課題であるとする。このため、各都道府県等では、複数の障がいに対応する併設型養護学校の設置や、盲・聾・養護学校の配置見直しなどに関する検討が進められていると現状を報告し、地方分権の進展も踏まえれば、国の設計した特別支援制度をより柔軟なものとすることによって、こうした努力を促進したいと結論する。その意味では、この「特別支援制度答申」は大綱的文書とみなすべきであろう。

 このため、「最終報告」で提言されているとおり、現在の盲・聾・養護学校を、障がい種別を超えた学校制度=「特別支援学校」とすることが適当だと主張するのである。こう主張されるところの「設置見直し」や「障がい種を超えた」制度的措置が、繰り返すまでもなく設備の削減を予定するまやかしであり、地方分権の推進を貫徹するのが、この合理化の免罪符的役割となっている。この措置が、例の三位一体の骨太の改革に沿い、国の地方交付金の出し惜しみの裏面的推進であるのはいうまでもない。

 統合という名で小規模化される特別支援学校は、基本的には5種類の障がい種別(視覚障がい、聴覚障がい、知的障がい、肢体不自由、病弱)及びこれらの重複障がいに対応した教育を行なう学校制度とし、具体的にいかなる障がいに対応した教育を行なう学校とするかについては、地域における教育ニーズ等に応じて弾力的に判断されることとなる。ただ、これも「弾力的」といっても、中教審自身が報告するように、重複障がいが増えてきている現状では、校数削減といっているに等しい。現状から推しても、後に告発する貝塚養護学校廃止としてあらわれているのである。

 また、LD・ADHD・高機能自閉症等については、小・中学校等における特別な指導内容・方法が確立されていない現状にかんがみ、これらの児童生徒に対する適切な指導及び必要な支援の在り方についても、特別支援学校が、センター的機能の発揮を通じて先導的役割を果たすことが想定されると「特別支援制度答申」は提言する。

 こうした機能的立場から、特別支援学校の配置について、5点の考慮がなされる。それは、第1に、個々人の教育的ニーズに対応するため、可能な限り複数の障がいに対応できるようにするべきとの視点であり、特別支援学校が重複障がい対応に力をいれているのがわかる。だか、重複障がい対応を名目として、個別の指導がおろそかにされる可能性は否定できない。

 第2に、障がい児が、できるかぎり地域の身近な場で教育を受けられるようにするべきとの視点であり、障がい児の通学時負担を極力なくすように制度維持を表明している。一般に障がい児が通学手段とするのはバスであろう。広域に居住する障がい児を郊外に設立された特別支援学校に送り届けるわけであるが、できるかぎり短い通学時間で済むのが望ましいであろう。それは、特別支援学校の複数校設立が必要十分条件となるのはみやすい道理である。

 第3に、同一障がいの幼児児童生徒による一定規模の集団が学校教育の中で確保される必要があるとの視点である。だが、これはもともと「マイノリティー」である障がい児教育に当てはめるのには無理がある。個別の教育的ニーズに対応すると謳っているのにもかかわらず、それを一定規模に集約し指導しようというのは、予算面の都合に過ぎない。

 第4に、障がい種別の専門性が確保され、専門的指導により障がい児の能力をできるかぎり発揮できるようにする視点である。これは、従来追求されてきた視点であり、今後も継続し専門性の向上が期待される。具体的には特別支援教育免許状修得者の配置充実となろう。

 最後に、特別支援教育のセンター的機能が効果的に発揮されるようにする視点、である。これらの視点が陽の目をみるには、そのための「障がい種別を超えたグループ別」の教育課程が効果的に編成されるべきであると「特別支援制度答申」は述べる。この「グループ別」というのがワタクシたちにおいては、理解の外にある。

 上の5つの視点のうちの最後の視点である「センター的機能」は、「特別支援制度答申」では6点にまとめられている。第1に、小・中学校等の教員への支援機能、第2に特別支援教育等に関する相談・情報提供機能、第3に、障がいのある幼児児童生徒への指導・支援機能、第4に、福祉、医療、労働などの関係機関等との連絡・調整機能、第5に、小・中学校等の教員に対する研修協力機能、第6に、障がいのある幼児児童生徒への施設設備等の提供機能、である。なお、「障害者基本法」において、障がいのある児童生徒と障がいのない児童生徒との交流及び共同学習を積極的に進める旨が規定されたことを踏まえ、今後、盲・聾・養護学校に在籍する児童生徒と、地域の小・中・高等学校の児童生徒との交流及び共同学習の機会が適切に設けられることを促進することをも訴えている。

 こうした「センター的機能」が適切に「機能」するために、特別支援学校間での適切な連携が行われるとともに、その管理運営を担う都道府県教育委員会と、小・中学校の管理運営を担う市町村教育委員会とが十分に手を組むだけでなく、福祉、医療、労働など関係行政機関等の連携の下で地域支援のためのネットワークが形成されることが有効であると「特別支援制度答申」は述べ、各都道府県レベルで構成された「障害保健福祉圏域」や教育事務所単位での支援地域の設定を生かすべきと提言する。その際、「新障害者プラン」(障害者基本計画の重点施策実施5か年計画)において策定することとされている「地域において一貫して効果的な相談支援を行う体制を整備するためのガイドライン」の内容にも留意する必要があると「周辺事態」との包括的なプログラムを見通すシステム作りを目指すのであった。

 なお、「新障害者プラン」の中の表現である「個別の支援計画」と、「個別の教育支援計画」の関係については、「個別の支援計画」を関係機関等が連携協力して策定するときに、学校や教育委員会などの教育機関等が中心になる場合に、「個別の教育支援計画」と呼称しているもので、概念としては同じである。

b 「特別支援制度答申」における特別支援「教室」についての問題点

 では、「特殊学級」から「特別支援教室」への移行はどのようなものであるのか。障がい種別あるいは都道府県別の平均在籍者数には幅があるのでその実態は様々だが、全国の小・中学校の「特殊学級」の平均在籍者数は約2.8人(平成16年5月1日現在)との報告がある。

 従来の「特殊学級」の児童生徒には、教育課程のすべての時間をそこで過ごす必要のある児童生徒もいるし、かなりの時間を通常の学級との交流教育という形で障がいのない児童生徒とともに過ごす通級指導のケースもある。こうした従来制度に応じる教員はどうかといえば、残念ながら「特殊学級」を担当してきた教員の指導能力もまちまちなのが現状であり、通常の学級を担任する教員にまで特別支援に関わる相談支援が可能な専門性を有する先生方や、「巡回による指導」を精力的にこなす先生方もいる一方で、十分な専門性を有しない先生が配置される場合もある。それゆえ、通級指導、巡回指導の見直し、配置教員の専門性向上などが改革の端緒となるわけであり、小論では突っ込んだ議論は割愛するけれども、特別支援教育免許状の修得が、いうなれば全教員に要求されるわけである。

 具体的な「特別支援教室」のイメージについては、新しい障がいを含め、障がいのある児童生徒が、原則として通常の学級に在籍し、教員の適切、柔軟な配慮と配置、ティーム・ティーチング、個別指導や学習内容の習熟に応じた指導などの工夫により、通常の学級において教育を受けつつ、必要な時間に特別の指導を受ける教室として、ほとんどの時間を特別支援教室で特別の指導を受ける形態、比較的多くの時間を通常の学級で指導を受けつつ、障がいの状態に応じ、相当程度の時間を特別支援教室で特別の指導を受ける形態、一部の時間のみ特別支援教室で特別の指導を受ける形態、の3形態が想定される。

 こうした3形態に応じ、「特別支援教室」の構想が目指すところは、弾力的なシステムを構築することであると「特別支援制度答申」は述べる。もう、いうまでもなく、この「弾力的」が曲者なのであり、こうしたシステム構築にあたっては、現行の特殊学級を直ちに廃止するのではなく、障がいの種類によっては固定式の学級の方が指導上の効果が高いとの現場を知るものからの希望が保護者にあること、本来ならば「特殊学級」ではなく盲・聾・養護学校に進学するべきであるが、諸事情によってそれが叶わず、重度の障がいのある児童生徒が在籍している場合もあること、さらには特殊学級に在籍する児童生徒の保護者の中には、固定式の学級が持っている機能の維持を願望する声があることなどに配慮し、そうした意見集約の上で、「教室」運用が望まれるといわなければならない。健常児の多様な教育要求に対し、「少数派」である障がいのある児童生徒とその保護者のこうした願いは、以下に述べるノーマライゼーションの思想に立脚して、手厚い保障を忘れず、施策に反映すべきであるといえよう。

3 特別支援教育行政とノーマライゼーション

 特別支援教育行政とノーマライゼーションの関係性を考えることは、重要なことである。平成19年4月、本格的に始動する特別支援行政が、ノーマライゼーションの正しい認識にのっとって実施されるのかどうかは、実際にこのサービスを享受するワタクシたちからすれば、重大なポイントとなるからである。だから、その大前提として、ノーマライゼーションの思想が正しい思想として行政側に理解されていることを希望してやまない。

 それゆえ、ノーマライゼーションの理念そのものを、ここで確認しておく価値はあろう。小論では、ノーマライゼーションの世界的な浸透を喜び、賛同すると同時に、社会的弱者に対し手厚い保障があってはじめてノーマライゼーションは進められるべき指導理念であり、非倫理的な政策遂行の隠れ蓑たることを許さないというところにスタンドしていることを先に表明しておこう。

 まず、ノーマライゼーションに関し、現状、どのような共通理解があるのか、この理念の発生からみていく。この術語が生まれたのは、1950年代のデンマークにおいてである。障がい者施設において、知的障がい者の人権が侵害される状況が現場から告発され、その是正運動が展開されたときに、この指導理念は出発したといわれている。そして、教育上において、この術語が使用されるのは、もっぱら、障がい者と健常者との交流をめざして教育活動(交流教育あるいは共同学習と表現されるもの)を実践する場合の指導理念として活用されるときであろう。

 ただ、一般的には、社会的弱者である障がい者のほか、高齢者、女性など社会的に苦しい立場におかれる可能性の高い人びとが、他の比較的弱者扱いされない人びと(就労可能年齢であり、心身ともに健康な状態のものと仮定される)と同じように活動し、生活し、暮らしていくことがあるべき社会の姿勢といえる。「特別支援制度答申」では定義付けされていないけれども、そこで用語使用されている「共生社会」への移行は、こうした社会の成立を意味し、それこそノーマライゼーションが根付いた社会といえる。社会的弱者一般を「アブノーマル」というわけでは決してないが、それぞれに「弱点」とみなされる要素がある場合でも、そうした「弱点」を「弱点」として意識しないで豊かにゆったりと生きていけること、生活していける社会の実現を志向する。

 そうした意味では、障がい者にせよ、就労可能年齢であり心身ともに健康な状態のものと仮定される健常者にせよ、同じ条件で生活を送ることができる人間理性に基づいた社会に改善していこうという営為そのものを、ノーマライゼーションといっていい。多様な障がいがありながらも、普通の人びとと同じ生活ができるような環境づくりこそが、ノーマライゼーションのめざす具体的社会への第一歩である。

 では、特別支援教育とノーマライゼーションの関連はどうなっているのだろうか。前節までの議論において、ノーマライゼーションの思想はどのように認識されているのだろうか。それはサラッと流されるように、数箇所触れられているだけであり、報告書や答申の文面には、ほとんど登場しない。「特別支援制度答申」でいえば、第1章と第2章に2箇所あるだけである。しかもこの理念を深く考察しようとする姿勢はうかがえず、一般論的に登場するに過ぎない。

 ノーマライゼーションが共生社会の理念であるとして、現実にノーマライゼーションの実現=統合であるとするなら、統合は何と何を統合するのかということに注目しなければならないだろう。たとえば、行論で検討してきたような障がい種別の学校の特別支援学校への統合が、ノーマライゼーションの思想に合致するものなのかどうか、も知る必要があろう。一見、特別支援学校にすべての障がい種を統合するといえば、ノーマライゼーションの思想が制度的に進み、理想的なように映るが、果たして、たしかにそうなのか。さらにこの「統合」は、「普通校」と「特別支援学校」とを統合していく過渡段階にあるのだろうか。こうした検討に付随して、「普通校」と「特別支援学校」との別学体制を一層推し進めていると評価される事態をどうみるか、も議論の余地があろう。そこで理念型を提出し整理すれば、以下のような「統合」のスタイルがあることになるので、こうした各「統合」に触れながら議論を展開していこう。

①普通教育と特別支援教育全体の統合(=特別支援教育そのものの廃止)
②障がい種別の盲・聾・養護諸学校を一括りにし、特別支援学校にする統合(=個別特別支援の廃止)
③普通教育と特別支援教室の統合(=特別支援教室の廃止)
④特別支援学校と特別支援教室の統合(=特別支援教室の廃止=別学体制の確立)

 ①のように、普通教育と特別支援教育全体を統合することは、絶対的に不可能である。いかに共生社会が理想だとしても、教育支援ニーズが健常者とちがうかぎり、特別の支援は必要であり、将来的にも垣根を完璧になくす「統合」はあってはならない。この主張を、別学体制を助長する意見だと決めつけるならば、その意見は誤っている。ただし、薪を割ったように別学体制を維持するのは、これまた不本意な教育展開である。だからこそ、交流学習が叫ばれているのである。両教育分野から、自然と歩み寄って、ともに学びあう形がみえてくるのが理想的な在り方であって、遠足にいっしょにういったり、文化祭をともに楽しんだり、主に特別活動分野における交流や共同学習の多角化が期待されている。

 健常児と障がいのある児童生徒との交流は、社会に巣立ってから障がいのある児童生徒が健常者とどういうようにつきあっていくかを探る場であり、裏からいえば、健常者がどのようなスタンスで障がいのある人びとと交際していくのかを学ぶ場であり、両者共通に、思いやりと理性を信じ、いかなる豊かな人生を送るかを真摯に選択する場でもある。そうした意味で、ここでいうところの「統合」を、特別支援教育現場をまったくなくし、「普通の学校」といわば合併する形で、建物的に「統合」するというのであれば、通学圏の問題を解消するかぎり、問題ない。従来点在するすべての障害ある児童生徒のための学校の総敷地面積と、延べ換算で同じ面積を保障して新しい特別支援学校を設立し、健常児も障がいのある児童生徒もいわば「同居」する物理的問題の解消という意味で「統合」という言葉を使うならば、なんら反対はなく、むしろ、賛成である。そのためには、特別支援学校がセンター的役割を果たすべき、都道府県が責任を持つと「特別支援制度答申」では述べられていたが、一県一校のパイロット校的な配置にとどまらず、市町村規模でこれを複数設置すればよいのである。

 だが、それは絵に描いた餅に過ぎない。市町村規模でも特別支援学校を新規設立することは、障がいのある児童生徒数からして行政が難色を示しているのに、各学校に、充実した特別支援の教育施設を併存させること、たとえていえば、現在の「特殊学級」をすべて特別支援学校と同程度の施設に発展させ、あらゆる学校に配置することは、土台無理であるということである。

 ②の統合は、「特別支援制度答申」において最も主張したいポイントとなっていたが、この統合に関しては、まったく無意味ではないかと考える。第1に、いままでの特別支援における専門的な研究および実践の積み重ねが損なわれる可能性が高いからである。どのような計画によって合理化を進め、盲・聾・養護学校を「統合」つまり一体化するのかについては、すでに触れた。そこでは、一本化するメリットはみあたらなかった。第2に、一本化することは、障がいのある児童生徒の通学圏の広範化を惹起し、「特別支援制度答申」の理念と真っ向から反するし、同一敷地内に障がい種に応じた施設を「寄せ集める」ことには意味がない。これならば、従来の状態で十分である。なにゆえに、この一本化が特別支援教育を一層よいものにするのか、理解できない。

 ③と④は、「特別支援教室」が各学校と特別支援学校のどちらに吸収されるかによって統合の仕方が違うということを意味する区分けである。この「特別支援教室」をどのように「落着」させるかが、「統合」にあたって一番判断の分かれるところであろう。できるかぎり健常児との生活をともにする立場からは、各学校の「特別支援教室」を複数用意するなど充実させる方向が望ましい。ノーマライゼーションは、なんでもかんでも枠をなくすことを意味しないのだから、各学校と「特別支援教室」の「統合」は、「特別支援教室」の廃止ではなく、現状のように、「区別のある統合」のまま配置するべきであろう。「区別」は決して「差別」ではない。上で「社会的弱者に対し手厚い保障があってはじめてノーマライゼーションは進められるべき指導理念」といった所以である。繰り返しになるが、校内で学習活動のほか、特別活動など、交流が保てる状態こそが、ノーマライゼーションの理想に合致するといえる。

 その一方で、「新しい障がい」児を「特別支援教室」において指導するケースでは、対応できないケースに逢着することも考えられる。なぜなら、「新しい障がい」児だからこそ、専門的な「治療」および「支援方法」が、今後、発見あるいは開発され、実践されるだろうからである。このような場合を想定して、どのような措置をあらかじめとるべきであろうか。中枢神経系に何らかの機能障がいがあるゆえの新しい障がいであっても、たとえば高機能自閉症のように、知的能力において健常児となんら変わりはない場合もあるので、通級の比率を高めて対応するのが一般であると思われる。しかし、ここでも、障がい種で一括りにしてしまうと、「新しい障がい児」と、たとえば「視覚障がい者」や「病弱者」が同一教室で学ぶことになり、これでは個別の教育的ニーズに応じた指導形態であるとは判断しにくいのである。とすれば、特別支援教室の障がい種別の教室化は避けられないのではないか。

 逆のケースであるところの、「特別支援教室」を「特別支援学校」に組み込むことは、議論の外といえる。これは交流をめざす態度ではないだろう。現状、このような適切でない受け容れ状態にある児童生徒もいるが、いちはやく是正措置をとるべきであるといえよう。

4 特別支援教育に関する教育法規の確認

 具体的に特別支援教育に関する法規の条文の変化を追っていこう。改正前は、以下のようであった。

学校教育法 第6章 特殊教育
第71条 盲学校、聾学校又は養護学校は、それぞれ盲者(強度の弱視者を含む。以下同じ。)、聾者(強度の難聴者を含む。以下同じ。)又は知的障害者、肢体不自由者若しくは病弱者(身体虚弱者を含む。以下同じ。)に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施し、あわせてその欠陥を補うために、必要な知識技能を授けることを目的とする。

この文言が、平成18年6月21日法律第80号による改正、すなわち、「学校教育法等の一部を改正する法律 第6章の章名を次のように改める」を受ける。それは、

学校教育法 第6章 特別支援教育
第71条第1項中「盲学校、聾学校又は養護学校は、それぞれ盲者(強度の弱視者を含む。以下同じ。)、聾者(強度の難聴者を含む。以下同じ。)又は」を「特別支援学校は、視覚障害者、聴覚障害者、」に改める。
第71条第1項中「肢体不自由者若しくは」を「肢体不自由者又は」に改める。
第71条第1項中「施し、あわせてその欠陥を補うために、」を「施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために」に改める。


という読み替え規定であるから、結局条文は、

学校教育法 第6章 特別支援教育
第71条 特別支援学校は、視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けることを目的とする。

となる。第1節で少しだけ指摘しておいたが、「欠陥」=「個性」と捉える捉え方が主流であったから、表記を「個性」とするのも考えられるところであった。文科省は上のように「自立」を前面に押し出した表現を採用し、無難な落とし処を発見したといえよう。

 これに応じ、以下のように施行規則も変わる。それは、第73条に関する規定の変更であるが、それは、もともと、平成5(1993)年に文部大臣森山真弓時代に追加規定されていたものであった。すなわち、平成5年までは、73条は20までであったのに対し、森山は73条の21と22を追加する施行規則改正を省令として通達したのであった。それが以下の規定である。

第73条の21 小学校若しくは中学校又は中等教育学校の前期課程において、次の各号の一に該当する児童又は生徒(特殊学級の児童及び生徒を除く。)のうち当該心身の故障に応じた特別の指導を行う必要があるものを教育する場合には、文部科学大臣が別に定めるところにより、第24条第1項、第24条の二及び第25条の規定並びに第53条から第54条の二までの規定にかかわらず、特別の教育課程によることができる。
一 言語障害者
二 情緒障害者
三 弱視者
四 難聴者
五 その他心身に故障のある者で、本項の規定により特別の教育課程による教育を行うことが適当なもの

この規定が、

第73条の21 小学校若しくは中学校又は中等教育学校の前期課程において、次の各号の一に該当する児童又は生徒(特殊学級の児童及び生徒を除く。)のうち当該心身の故障に応じた特別の指導を行う必要があるものを教育する場合には、文部科学大臣が別に定めるところにより、第24条第1項、第24条の二及び第25条の規定並びに第53条から第54条の二までの規定にかかわらず、特別の教育課程によることができる。
一 言語障害者
二 自閉症者
三 情緒障害者
四 弱視者
五 難聴者
六 学習障害者
七 注意欠陥多動性障害者
八 その他心身に故障のある者で、本項の規定により特別の教育課程による教育を行うことが適当なもの

と、「二」、「六」、「七」が追加されているのがすぐわかるだろう。

 なお、こうした変更から、「盲・聾・養護学校」と呼称するのではなく、「視覚障がい、聴覚障がい、養護特別支援学校」、あるいは最後の「養護特別支援学校」は「知的障がい・肢体不自由・病弱特別支援学校」と呼ばなければならない。

5 障がい児教育現場および障がい者福祉施設からの告発

ⅰ 貝塚養護学校の存続をめぐる闘争

 貝塚養護学校は、戦後すぐの昭和23(1948)年7月、大阪市立少年保養所付設貝塚学園として創設され、昭和32(1957)年4月、養護学校として開校された伝統ある教育施設であり、病弱・虚弱児を対象に、同校での寄宿舎生活を伴う教育と大阪市内の病院に入院する児童生徒への訪問教育を実施する養護学校である。現在、在籍数は、本校(寄宿舎設置)小学部4名、中学部17名 の計21名である。平成5(1993)年の通級指導の合法後は、大阪市内の病院への訪問教育を開始していた。この学校が、いま、廃校の淵に立たされている。寝耳に水の撤廃が報知されたのは、2006年11月7日のことである。

 大阪市教育委員会はにべもない。「大阪市教育委員会プレスリリース」は、「大阪市立貝塚養護学校の学校指定の停止について」と題して、次のように語る。否定的な意味合いで、重要な歴史的碑文になる可能性があるので、長文をいとわず引用しておきたい。

 大阪市教育委員会は、大阪市立貝塚養護学校の就学に係る学校指定について、平成19年4月1日から停止します。これに伴い、以後は同校への新たな児童・生徒の受け入れは行いませんが、同校が現在行っている大阪市内の病院に入院する児童・生徒を対象にした訪問教育については引き続き行います。
 病弱児を対象とする貝塚養護学校(小学部・中学部)は、昭和23年に、転地療養を必要とする結核療養児のための大阪市立少年保養所の付設施設として開設された貝塚学園を前身とし、昭和32年に開校しました。
 平成4年、同保養所は休止され、以後、大阪市内の病院に入院する児童・生徒への訪問教育や、隣接する国立療養所千石荘病院と連携し、喘息、腎疾患等の疾病や、肥満等生活規制を必要とする児童・生徒を対象とした病弱教育を進めてきました。
 しかし、平成15年には、隣接する千石荘病院も廃止され、また、在籍数も年々減少し、学校としての存続が困難になったため、新たな児童・生徒の受け入れを停止するものです。
 なお、大阪市内の病院への訪問教育は、平成19年4月1日以降も引き続き貝塚養護学校から行い、閉校後は、大阪市内にある養護学校を病弱教育の拠点校として位置付け、医療機関との連携のもと、貝塚養護学校の機能を移管し、この拠点校から病院への訪問教育を継続して行います。
 また、これまで、貝塚養護学校で受け入れていたような、入院を必要としない病弱の児童・生徒については、家庭・地域における生活を基盤とし、小・中学校の通常の学級や病弱養護学級において、指導・支援を行い、教育・医療・福祉の密接な連携のもと、本市病弱教育の一層の充実を図ってまいります。

 ここにみられるように、貝塚養護学校は2007年4月に閉鎖されるが、この学校の歴史的使命は終わったといえるだろうか。在籍児童生徒数の減少が閉鎖の主たる理由であるが、「障がい児が、できるかぎり地域の身近な場で教育を受けられるようにするべきとの視点」というように、地域に密着した特別支援の在り方を、「特別支援制度答申」を通して確認したワタクシたちとしては、募集停止に反対せざるをえない。大阪市議会・文教経済委員会において閉校に対する反対意見があったのも、うなずける話である。その批判要点は、第1に、貝塚養護学校と病院との連携は、学校近隣の他の病院とでも可能であるということ、第2に、学校在籍者が減少するのは、該当校の存在が地域に知られるような広報活動を行政が怠ったところにあるということ、にあった。

 こうした突然の募集停止に対し、保護者たちは当然ながら存続を市教育行政に要求しつづけている。保護者やそこで学ぶ生徒たちは、「守る会」を結成した。『毎日新聞』(2006年12月13日付)によれば、「いじめなど学校でのストレスで不登校や心身症になった子どもを(これまでに-引用者の註)600人以上受け入れており、『必要とする子どもは多い』と訴えている」ようである。さらに同紙は、「全国に92ある病弱養護学校のうち寄宿舎があるのは12校で、関西では同校のみ。現在在籍する22人が卒業したり、地元の小中学校へ戻れば廃校となる。市教委は、03年まで隣にあった療養所が閉鎖され、連携が難しくなったことなどから、『今後は地域で学ぶことを重視し、各地の養護学級で対応する』と説明する」と伝える。療養所の閉鎖についても一悶着あったにちがいない。大阪市の厳しい財政事情が、寄宿舎を持つこの学校をも切り捨てる所業に出たといえる。関西でひとつしかないのであれば、より一層の充実を企てるのが、普通の神経であるのにもかかわらず、逆に自身の経営努力を棚に上げ、学校そのものを閉鎖するとは情けない。しかも、「今後は地域で学ぶことを重視」するというのであれば、地域のセンター的役割をこの貝塚養護学校に与え、少なくとも貝塚特別支援学校に再生するのが、大阪市特別支援行政の責任であるといわなければならない。在籍者のナマの声を聞こう。

 「心身症で今年3月まで4年間学んだ同府岸和田市の高1女子(15)は『先生は親身になってくれて一緒に寝てくれたこともある。今は人と話すのが楽しい。学校がなければ今の私はない』。母親(44)は『精神的に不安定で真夜中に自宅から学校へ戻った時も、先生は待っていて『おかえりー』と抱きしめてくれた。命を守る学校だと思った』と涙ながらに訴える」(『同上』)。

 「心身症児を多く診察する堺市の小児科医、竹中義人医師(49)は『心身症の子を一律に地元へ戻そうとすれば再び症状が悪くなったり、不登校の恐れもある』と危惧(きぐ)する』」(『同上』)。

 こうした声こそ、学校経営に反映するべきものである。この学校を必要とする児童生徒から居場所を強引に奪い、彷徨う砂漠の民のようにさせてはならない。

 --「命を守る学校」、なんと栄誉ある表現であることか!

 貝塚養護学校の教員への最大の賛辞である。先生方のこれまでの努力と、在籍者、保護者の声を少数派であるからとして、むなしくするようなことが許されていいのだろうか。そして、こうした合理化による閉鎖が在籍者の存続要求を無視し執行されるところに、市教育行政と政府レベルの教育行政との乖離が確認され、市のこうした弱者切捨て施策を容認するところに、「特別支援制度答申」の大綱的意図が隠されているといえよう。

ⅱ 障がいのある人びとの批判意識

 障がい者施策をめぐる議論は、世界的に進行している。それは人権課題上の「社会的弱者」として解決課題であることを前提し、平成5(1993)年には、国際連合の総会で「障害者の機会均等化に関する標準規則」が起草されたことが示している。21世紀に入っては、「国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)」の議決である「アジア太平洋障害者の十年」の10年延長が決定されたし、日本を舞台に平成14(2002)年には、「びわこミレニアムフレームワーク」が採択されている。

 こうした世界レベルの議論の進行と並行して、障がい者施策をめぐる日本の状況も、表面的には歩一歩前進しているようにみえる。たとえば法規的にいえば、平成16(2004)年の障害者基本法の改正、「障害者基本計画」の閣議決定とその施行、発達障害者支援法の制定とその施行というように。だが、この進行には、「改悪」とみなされる立法化も含まれているのである。中でも、「障害者自立支援法」の施行は、「改悪」の最たるものであろう。2005年に抗議のデモ「10・18御堂筋・大パレード」が行なわれたのはワタクシたちの記憶に新しい。『毎日新聞』(2005年10月19日付)は、この「支援法」を「1割負担支援法」といいかえ厳しく指摘し、「今の法案では自立でけへん!」と嘆く近畿圏の障がい者のナマの声をワタクシたちに届けた。

 この御堂筋パレードは、「障害者自立支援法を考える大阪のつどい・実行委」が主催したデモである。同法案は、「障害者の自立と完全参加を目指す大阪連絡会議(障大連)」の議長楠敏雄氏が「今日の行動をきっかけに、新たな自立の戦いにしていきたい」と宣言しなければならないほどの、障がい者にとって死活問題となる経済生活に関しての改悪法案であった。

 改悪と評価される理由は、滋賀自立生活センター代表垣見節子氏の「財政難としても、他に無駄があるのに、一番弱いところから徴収するのはおかしい。障害者の実態は、ちょっとした聴き取りや数字だけでは分からない」(『同上』)との発言に集約される。こうした改悪に歯止めをかけようと2004年4月、すでに声明文にまとめ、障がい者の危機感を率直にあらわしたのが、ルーテル作業センタームゲンの統合失調症当事者佐野卓志氏である。以下に示そう。

 今回の法案は国が福祉の責任を放棄して、税金の再分配から、自己負担の保険で福祉をすまそうとするものです。福祉は生活保護だけにしたいようです。御存じのように障害者はみんな貧乏です(註3)。普通の人が働いて貯金をしてる間に、仕事があまりできず、貯金がないのです。ここが老人と全く違います。だから、介護保険との統合は前提で無理なのです。それに障害者の場合は老人と違って、親(介護者)の方が先に亡くなりますから、介護保険では、親亡き後の心配がつきまといます。この法案は本人の自己負担を増やして、金の無い、特に重度の(状態の)人から搾り取ろうとしています。本人が払えないなら家族が払えと言っています。これの何処が「自立支援」なのでしょう?障害をもったことは本人の責任ではありません。普通の人のスタートラインまで引き上げることが果たしてサービスでしょうか?何故自己負担が発生するのでしょうか?
 とくに32条(註4)公費負担の廃止削減は問題です。よっぽど本人も家族も収入の無い人以外のうつ病の人は公費負担からはずれます。うつ病は大変自殺の多い病気です。公費負担からはずされると、ますます精神科からうつ病者の足が遠のき、自殺が増えると思います。今回はずされた神経症でも自殺念慮のある人は多いです。厚生労働省は自殺が増えてだれが責任をとるのでしょう?また所得証明を確認する手続きの煩雑さを1年ごとに障害者に強いることは、ますます公費負担の敷居が高くなるでしょう。精神障害者全般にわたる唯一の福祉の役割を担ってきた32条の根本的破壊です。
 住む場所(グループホームなど)の障害の重さ別の分類も問題です。これはひと昔前に精神病棟で機能別分類を実験して失敗ましたね。病者は特に居場所が大切です。今症状の落ち着いてる環境から切り離して分類して、遠くの新しい環境に住むよう強制するのは症状の悪化を招くだけです。定員を増やすことも地域から隔離されたミニ施設になり、ホームヘルパーもガイドヘルパーも使えません。そして判定による引っ越しの強制は憲法の生活権の侵害です。
 作業所も国の補助金が切られます。自治体が資金不足を理由に右にならえをしたら、どうするつもりでしょうか?少なすぎる社会資源を増やして、72000人の社会的入院の解消する時なのに、これ以上、貴重な社会資源である作業所を圧迫してどうするつもりなのでしょうか?厚生労働省はアメリカのように入院患者のホームレス化をおし進めるつもりだとしか思えません。
(中略)
 この法案には反対です。成立するようなら、年金改革で障害年金を上げることを要求します。そうでなければ、障害者は生活していけません。この国も金のない障害者の懐を当てにするようになったら本当に情けないことです。
(以下、略)

 数字は得てして効率化の冷徹な判断の材料とされるが、こと、障がい者施策については、実態は数値化でないケースが多いのである。まして、障がい者施策は、経済的合理性を追求する領域ではなく、あたたかいまなざしを持って運営するべき福祉分野なのである。この分野こそ「聖域」化するべきではなかろうか。そうでなければ日本が福祉国家を名乗ることなどおこがましいといえる。結局、「障害者自立支援法」案が2005年10月、国会を通過し、平成17年11月7日、法律第123号として成立した。法的措置の対象たる障がい者の方から、これほどまでに指弾される法律の採決に、国会は猛省しなければならないといえよう。

おわりに

 最後に、2、3点、特別支援教育と障がい者施策に関わり論点整理して示しておきたい。

 障がい者の就職支援、経済的自立支援に関しては、知的障がい者の雇用を条件付ける福祉保障的社会体制に頼り切るのではなく、企業就労が障がいのある人びとのゴールとは一概にはいえないかもしれないが、「特殊」教育諸学校は、独自な就職支援を推進する態度が肝要である。歯科技工士への道を拓り開き、全国から入学応募が殺到した堺聾学校の歴史的業績はその意味で特筆されるべきであり、そうした先生方のなみなみならぬ生徒への熱い思いが、さらに継承、増幅されることを願っている。

 こうした就労問題が、「特別支援教育」と「障がい者施策」とが現実的に交錯する最初の場所で発生するわけであり、ひとつの論点である。大阪では、昨年春出発した府立たまがわ高等支援学校が、生徒の将来的な就職をにらんで教育課程を編成しているし、「職業に関する専門学科」として「ものづくり科」、「福祉・園芸科」、「流通サービス科」が設置されている。それゆえか、スクールバスや給食がないながら、同校は、かなり高倍率の入学事情となっており、特別支援のエース校的な評判が立っているのである。この事態は、それだけこうした学校そのものの設立要望が高いことを意味しているのであって、第2、第3の「たまがわ」が求められているといえる。だが、この事態は、特別支援教育にも、エリート選抜が実施されている現実を物語るものともいえよう。

 小論で検討してきたように、実際に先んじて、交流や特別支援など教育理念が高唱されるのは、それはそれで結構なことである。理念が現実を批判するからである。だがもっとも大切なことは、障がいのある児童生徒、障がいのある人びとに対する社会、教員または教育界の意識革命ではなかろうか。これがふたつめの問題点である。

 いくら高級な言葉が唱えられようとも、指導する教員の意識が低ければ、なんともならない。教育界からですら、勘違いの発言がややもすると発せられることが、それだけ「特殊」教育への偏見が根深いことを示している。特別支援教育に携わる教員だけではなく、各学校のすべての先生方、ひいては教育行政担当者、ワタクシたちすべてが、特別支援レボリューションの担い手とならなければならない。特別支援教育に対する偏見は、他のあらゆる心理的差別つまり人権課題と根を一にしていることを指摘しておきたい。

 次の論点は、「連携」の問題である。国や地方が、ノーマライゼーションを推進するため、障がい者プランの策定や医療、福祉、労働の各分野で行政指導を展開しているのは周知のところであろう。また、グループホームの設置もなされているが、これにはまだ解決すべき課題が多い。あの、話題となった、宮城県の元知事浅野史郎氏(現・慶応大学教授)が推進し、現知事村井嘉浩氏が継承するグループホームの在り方に、賛同と批判の両方が寄せられていることが、その困難さをはっきり示している。アメニティーフォーラムのもうすぐ10回にならんとする議論を無駄にすべきではない。

 特別支援学校と障がい者施策とは、将来的に接続するゆえ、「個別の指導計画」をカルテとして、障がい者に対して一貫したサポートが望まれる。ワタクシたちが批判的に検討してきた「特別支援制度答申」の理念に、汲むべきところがまったくないわけではない。このカルテもそのひとつである。現に社会で働き生活している障がい者の現実から推して、有効な特別支援教育を樹立すると同時に、障がい者が社会人として生きていく「苦難」をワタクシたち市井の人間が理解し、あたたかい手を差し伸べ、彼らとともに特別支援教育行政や福祉行政を撃つことが、これらの諸問題を解決していくことにつながっている。

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註1

 『毎日新聞』の記者、津島史人が2006年12月21日に、「障害者に安心の未来を」と題して、兵庫県の実態を伝えてくれている。「障害者の小規模作業所が『障害者自立支援法』で危機を迎えている。寅さん映画の最終作に登場した阪神大震災で被災したパン屋のモデル、神戸市長田区の共働作業所『くららべーかりー』を訪れて実感した。/神戸市内に小規模作業所は約160カ所。この法律の影響で今後、運営を支えた補助金は実質的には減り、やりくりが厳しい作業所の閉鎖が相次ぐ可能性が高い。/私が訪ねた時、障害者は互いに笑い合い、励まし合う時間を過ごしていた。『ここは皆が1日の中で一番明るく過ごせる場所なんです。無くなったら行くところはなくなるのです』と語る関係者の言葉が胸に残った。/独自の支援策を決めた自治体もある。神戸市も障害者とその家族を将来にわたり、安心させてほしいと思う」。

註2 

 『毎日新聞』2007年1月21日付は、次のように滋賀県における最近の数字を挙げている。「◇設備充実、教員育成が課題--来年度、通級4教室を新設へ / 注意欠陥多動性障害(ADHD)、学習障害(LD)、広汎(こうはん)性発達障害(PDD)など脳の何らかの機能障害が原因でコミュニケーションや学習に困難がある「発達障害」を抱え、教育現場での特別な支援が必要な児童・生徒が県内で約4400人にのぼることが、県教委の調査で明らかになった。【高橋隆輔】 / 調査は昨年9月1日現在の県内公立小・中学校在籍生を対象に行った。全児童・生徒約13万人に対し、支援が必要な児童・生徒は3・5%にあたる4430人。内訳はLDが2301人(1・8%)、ADHDが1628人(1・3%)、自閉症など広汎性発達障害(PDD)が1972人(1・6%)。 / このうち約3700人は通常学級で少人数教育を行ったり、複数教員で指導に当たるなどの配慮で対応している。また、県内には現在25ある通級教室でコミュニケーション能力を高めるトレーニングなどを定期的に受けている児童・生徒は410人だった。 / 通級教室での支援については、各市町教委からの要望と比べ、設備や人材などが不足し、十分な支援ができていないのが現状で、県教委は07年度予算で新たに4教室の設置を計画している。また、「通常学級で指導に当たる教員が、特徴のある児童生徒について理解し、適切に工夫された授業や指導を行うことがもっとも重要」として、県総合教育センター(野洲市)で希望者に特別講座を年10回程度実施。06年度はこれまで11回実施し、計約1400人の教員が受講している」。

註3

 『毎日新聞』2007年1月29日付【玉木達也】は、「知的障害:仕事あっても半数が月収1万円以下 厚労省調査」と題し、次のように伝える。「在宅の知的障害児・者は、推計で41万9000人に上り、仕事をしている人は4割に満たないことが厚生労働省の05年調査で分かった。収入は月1万円以下の人が半数近くを占めた。/ 『知的障害』の定義は日本の法律にはなく、同省は『知能指数(IQ)70以下で、何らかの援助が必要な状態』という基準で、全国から5926地区を無作為抽出し、該当する人の数を調査し推計した。判明した計2584人に調査票を配布し、05年11月現在の状況を調べた。有効回答率は80.3%。/ 在宅の知的障害者数は前回調査(00年)に比べ、27.3%(8万9800人)も増えた。厚労省は『在宅サービスが充実し、家族や本人の権利意識が高まったため、表面に出にくかった知的障害者が顕在化したのではないか』とみている。/ 仕事をしている人は37.5%で、業務内容別では『福祉作業所』(56.5%)が最も多く、『製造・加工業』(15.7%)が続く。月給は5万円までが67.3%。1万円以下が48.1%で、工賃の安さが改めて浮き彫りになった。/ 一方、障害基礎年金などの年金、手当を受給していない人は14.1%で、不受給の理由として『制度を知らない』が15.4%に上った。福祉サービスが受けられる『療育手帳』も5.8%が不所持で、その理由は『制度を知らない』(30.6%)が目立った。厚労省は制度を周知徹底するよう都道府県などに事務連絡を行った」。

註4 

(サービス利用計画作成費の支給)
第 三十二条 市町村は、支給決定障害者等であって、厚生労働省令で定める数以上の種類の障害福祉サービス(施設入所支援を除く。)を利用するものその他厚生労働省令で定めるもののうち市町村が必要と認めたもの(以下この条において「計画作成対象障害者等」という。)が、都道府県知事が指定する相談支援事業を行う者(以下「指定相談支援事業者」という。)から当該指定に係る相談支援(第五条第十七項第二号に掲げる便宜の供与に限る。以下「指定相談支援」という。)を受けたときは、当該計画作成対象障害者等に対し、当該指定相談支援に要した費用について、サービス利用計画作成費を支給する。
2 サービス利用計画作成費の額は、指定相談支援に通常要する費用につき、厚生労働大臣が定める基準により算定した費用の額(その額が現に当該指定相談支援に要した費用の額を超えるときは、当該現に指定相談支援に要した費用の額)とする。
3 計画作成対象障害者等が指定相談支援事業者から指定相談支援を受けたときは、市町村は、当該計画作成対象障害者等が当該指定相談支援事業者に支払うべき当該指定相談支援に要した費用について、サービス利用計画作成費として当該計画作成対象障害者等に対し支給すべき額の限度において、当該計画作成対象障害者等に代わり、当該指定相談支援事業者に支払うことができる。
4 前項の規定による支払があったときは、計画作成対象障害者等に対しサービス利用計画作成費の支給があったものとみなす。
5 市町村は、指定相談支援事業者からサービス利用計画作成費の請求があったときは、第二項の厚生労働大臣が定める基準及び第四十五条第二項の厚生労働省令で定める指定相談支援の事業の運営に関する基準(指定相談支援の取扱いに関する部分に限る。)に照らして審査の上、支払うものとする。
6 市町村は、前項の規定による支払に関する事務を連合会に委託することができる。
7 前各項に定めるもののほか、サービス利用計画作成費の支給及び指定相談支援事業者のサービス利用計画作成費の請求に関し必要な事項は、厚生労働省令で定める。

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昨年の『毎日新聞』のおける秀逸な連載・「格差社会考」について [国内政治]

 『毎日新聞』の社説における連載、「視点 格差社会考」は、同紙の第一人者的記者がそれぞれの視点から現代社会を斬っており、興味深かった。

 ワタクシたち教育に関心のあるものにあっては、「政府がトップダウンで実施する科学技術政策も役に立つ研究を志向している。第3期科学技術基本計画は研究の『選択と集中』を掲げ、特定の科学技術への予算配分を高める。その影響で、研究者の自由な発想に基づく基礎研究が圧迫される恐れがある。大学新陳代謝は必要だが、行き過ぎた競争原理やトップダウンで独創的な基礎研究が切り捨てられては困る。基礎体力のある大学だけでなく、地域に根ざした地方大学にもすぐれた研究の芽はあるはずだ」(『同上』4月17日付)といった、大学における基礎研究軽視について切れ味ある物言いをしていた記事に目がとまる。

 儲けに直結しない大学の基礎研究は、企業からのスポンサードはほぼ皆無だし、文科省からの補助金獲得にも常に難儀している。COEからもはずれる。工学部系統の研究開発費が企業からあった際に、基礎研究系統はそのおこぼれに与ろうとするのだけれども無視される結果となる。工学部系統にいわせれば、「うちがもらったんや、なんであんたにまわさなあかんねん」ということである。大学は、多様な企業から研究開発費をもらう。医学部における製薬会社からの寄付金、開発援助金などは、「白い巨塔」が伝えるところであった。それぞれの専門におカネを渡すわけで、価値ある=金儲けになる研究ではないと判断されやすいところには、お金は流れない。

 これにメスをいれる方法は、寄付金、研究開発費の窓口一本化である。学部や学科に捉われず、一括して窓口を設け、そこに流れ込んできたおカネを大学教授会でどう分割するか論議する。そして配分を決定するという方式である。こうすれば、いままで潤沢であった、あるいはあり過ぎた工学部系統のおカネが、基礎研究系統のところにいく。たとえ傾斜配分であっても、基礎研究系統は喜ぶに違いない。

 しかし、繰り返しになるが、こうした方式を工学部系統、医学部系統は嫌うから、実現しないだけである。同じ大学であっても、分け前をやるものか、という感覚である。まして、文学部や社会学部におカネがまわるわけがない。生産性がない学部に、カネはいらんという理屈である。

 大学の独立行政法人化に伴い、こうした姿勢は緩和されるのかと思えばそうではない。事態は一層悪くなっているようである。さすがは世界ではじめて工学部を誕生させた日本だけある。

 こうした大学内部の「格差」をテーマにする社説を『毎日新聞』が報道する一方、当然ながら生活者の「格差」をも問題視している。教育者も生活者である。生活保護の問題にも関心を持つべきであろう。そこでは、「不正受給の問題が注目されがちだが、保護を受けられる基準以下の収入でありながら受給せずに暮らしている人たちは、実際の受給者の2~4倍はいるという研究者らの調査がある。生活保護を受けると世間にさげすまれるから抑制されているのも現実だろう」(『同上』5月9日付け)と、苦しい世帯が後ろ指を指されないよう質素な生活を守っている様子が描写されている。お父さんのおこづかいどころか、あすもみえない世帯が、400万世帯あるという現実である。

 資本主義社会の成立は、労資関係の定立を意味するが、そこにはハナから摩擦があることを経済学者は指摘してきた。そのバッハ回路をもとめて、道徳や共生などの理念が動員されてきた。福祉関係者は、階級闘争が内在されている資本主義の欠陥を、社会権の主張を認める立場から是正しようと四苦八苦してきた。だが、もう、ここにきて、年間3万人以上の自殺者を生んでも構わないと考える政府にがぶりよられたようである。ここにはいわゆる「七輪自殺」も含まれるのだろうが、それだけ現代版「ぼんやりした不安」があることを指し示しているといえる。

 イロイロな視点から格差社会を読み解こうとしていた『毎日新聞』のこのシリーズは、近年の『毎日新聞』の秀逸連載と評価できる。別建て会計でその存続を建て直した毎日新聞社が、今後も倒産の憂き目や身売りから自己を救い、一層社会の木鐸たる地位を固めることを極めて強く期待する2007年の新春である。あまり2chにケンカを売っている場合ではない。

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